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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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ローマ帝国を強化と平準化したハドリアヌス皇帝(2/3); 歴史深層(027)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月10日<ⰧⰊⰧ

☆★ スターやヒロインが互いに引き抜き合戦になるのを防ぐため、日本の5大映画会社でカルテルを結成(1953年=五社協定)。☆★ フランスが生んだ死刑器具のギロチンがこの日を限りにお役御免となる(1977年)。☆★ 木村剛の銀行商売がぶっ潰れ、財務省がその尻拭いをさせられる破目に(2010年= 日本振興銀行が経営破綻)。

本日記載附録(ブログ)

Publius Aelius Trajanus Hadrianus は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し国境安定化路線へと転換した。そこで皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始さた。

118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた。パンテオン神殿の再建に着手し、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。

私生活では、ビテュニアの美青年の愛人アンティノウスを寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ギリシャを偏愛し、ギリシャ風の髭を蓄え、アテナイに繁栄をもたらしたハドリアヌス皇帝……

◇◆ ローマよりアテナィに傾倒し、美青年を寵愛し、帝国の統合強化に長期旅行 =2/3= ◆◇

 ギリシャ人への憧れと不信
 ローマ人はそもそも、ギリシャや古代文化に長らく憧れを寄せていた。ローマが力を付け始める幾世紀も前から、ローマ人はイタリア半島でギリシャからの入植者と出会い、ギリシャの神々や神話を取り入れてきた。

 共和制ローマの時代(紀元前509年~前27年)には、ギリシャの哲学者がローマを訪れては思想に影響を与えるようになっていた。やがてローマ帝国が誕生すると、初代皇帝アウグストゥスの時代に詩人ウェルギリウスが『アエネーイス』を書きあげる。トロイアの王子アエネーアースが、人々を率いてイタリアに逃れる物語で、ギリシャとローマがひとつながりであることを示している。

 アテナイは紀元前86年にローマに征服されたが、頑固にローマの支配を拒んだことが後の偏見につながったのかもしれない。紀元前1世紀の弁舌家キケロはギリシャ思想を大いに普及させたが、ギリシャ人は信頼に値しないと述べている。

 ローマ帝国は、皇帝トラヤヌスのもとで史上最大の領土面積を持つに至り、西暦117年にハドリアヌスがこれを譲り受けた。巨大な帝国を治めるには、東方を安定させる必要があった。ギリシャ世界が鍵であると考えたハドリアヌスは、自身のギリシャ愛が帝国の運営にも役立つと踏んだ。ギリシャを熱烈に称えることで、東方から西方に至るまで、帝国を統一することを狙ったのだ。

ゼウス神殿の再建
 西暦124年に2度目となるアテナイを訪れたハドリアヌスを、アテナイ人は大いに歓迎した。翌3月には、古代から続くギリシャ神話の神を祝するディオニューシア祭を主宰した。皇帝はこの地で、より積極的な役割を果たそうとしていた。オリンピアの最高神ゼウスに捧げる神殿、オリンピア=ゼウス神殿を完成させるのだ。

 神殿は紀元前6世紀からアテナイに建っていたとされる。紀元前2世紀には、セレウコス朝の王たちが再建を試みたものの中断、ローマ皇帝アウグストゥスも再建を検討したようだが、実施することはなかった。幾度も頓挫しているこのプロジェクトを、今度こそハドリアヌスが完遂しようというのだった。

 パルテノン神殿よりも豪華なものにしたいと、ハドリアヌスは考えた。100本以上のコリント式の柱の上部には、最大限に手の込んだ、ギリシャ復興のシンボルであるアカンサスの葉の装飾を施した。アテナイのエリートたちは即座に皇帝の熱意に引き込まれ、計画を支持した

 西暦128年の3度目のアテナイ訪問時、ハドリアヌスは、美青年として有名だった十代の愛人アンティノウスを連れていた。2人は、ギリシャ神話の秘密の儀式「エレウシスの秘儀」に参加したこともあった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 第14代ローマ皇帝・ハドリアヌス (2/3) ⨂⨁

ハドリアヌスの業績
先帝・トラヤヌスは、すでにダキアを属州化していた。パルティア戦争開始後、メソポタミア、アッシリア、アルメニアを属州とし、治世末期にはローマ帝国史上最大の版図を実現していた。しかし、東方の隣国であるパルティアとの紛争を収束させていなかった。

このような状況に鑑み、ハドリアヌスは外交政策を攻勢から守勢に転換し、ユーフラテス川以東のメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄して、東方の国境の安定化を図った。

ハドリアヌスは帝国の統一のためには平和が欠かせないことを充分認識しており、帝国の東部以外でも帝国の防衛力を整備した。軍事的脅威を受けている地方では、防壁(リメス)の構築あるいは天然の要害によって帝国を防衛することにした。なかでも、カレドニア人との紛争が続いていたブリタンニア北部に「ハドリアヌスの長城」として知られる防壁を構築した。

ゲルマン人との境界のライン川やドナウ川地域、そのほか、アフリカでも防壁が構築されている。そして、皇帝自ら軍紀の徹底を図り、巡察旅行中も現場で兵士の訓練を親覧し、直接指示を出したりした。また、軍団に地元の兵士を採用することによって、軍団の徴募を安定化させ、経費の節約を図った。

パルティア問題を収拾させたあと、帝国内の諸問題に取り組む。まず属州に対する姿勢を変更した。属州の重要性を強調し、開発を推進すると同時にイタリアとの一体化に努力を傾注した。このため、ハドリアヌス自身、2度にわたって長期の巡察旅行に発輦した。

この旅行の目的は、帝国防衛の再整備、帝国の行政の調整、統合の象徴としての皇帝の周知、帝国各地(とくにギリシア化していた地域)の巡察にあった。巡察旅行には建設関係者をも随伴していたといわれ、公共工事も行われた。

次に、ハドリアヌスは統治機構を整備した。彼の構築した官僚機構は以降の帝国の基礎となる。ハドリアヌスは法制度の整備も推進する。サルウィウス・ユリアヌスに命じて、『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂させた(完成は131年頃、6世紀まで使われた)。

これは、法務官が出した従来の告示(属州総督や属州の審判人の法源)を集大成したものである。ユスティニアヌスの時代には、これらを基に『ユスティニアヌス法典』(別名『ローマ法大全』)が編纂された。

130年、エルサレム市をローマ風の都市に建設、自らの氏族名アエリウスにちなんで植民市「アエリア・カピトリーナ」と命名し、さらに132年には割礼を禁止した。そのため、ユダヤ人の大規模かつ組織的な反乱が発生した。バル・コクバの乱と呼ばれる。

ハドリアヌスは他の属州からも軍団を動員し、135年にようやく反乱を鎮圧した。3年以上を要したことになる。この戦争の終結を機に、ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が変更され、この地からユダヤの名が消えた。ユダヤ人は離散(ディアスポラ)を余儀なくされ、以後、エルサレム市内への立ち入りも制限された。・・・・・・明日に続く

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  =  「ハドリアヌス帝の別荘」の人工池に浮かぶ「海の劇場」  =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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