ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月09日<ⰧⰊⰧ
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本日記載附録(ブログ)Publius Aelius Trajanus Hadrianus は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し国境安定化路線へと転換した。そこで皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始さた。
118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた。パンテオン神殿の再建に着手し、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。私生活では、ビテュニアの美青年の愛人アンティノウスを寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)ギリシャを偏愛し、ギリシャ風の髭を蓄え、アテナイに繁栄をもたらしたハドリアヌス皇帝……
◇◆ ローマよりアテナィに傾倒し、領土を統合強化した長期旅行 =1/3= ◆◇ローマ帝国が繁栄した時代、皇帝が訪れるとなれば、どの街でも期待が高まっただろう。しかし西暦124年のアテナイ(現在のギリシャの首都アテネ)の人々の期待は絶大だった。
ブリテン(現在の英国南部)からバビロニア(現在のイラク)に至る大帝国を治めていた当時のローマ皇帝ハドリアヌスは、子どもの頃から無類のギリシャ好きで知られていたからだ。彼はローマ支配下にあった多くの都市の中から知の故郷としてアテナイを選び、記念建造物を造るのに投資を惜しまなかった。
彼がアテナイに造った建造物には、過去の栄光を記念する意味だけでなく、その時代における重大な意義もあった。ハドリアヌスは、アテナイを復興させることで、抵抗を続けていたローマ帝国東方部の安定につながると考えていたのだ。
培われたギリシャ愛
プブリウス・アエリウス・ハドリアヌスは、西暦76年、現在のスペイン南部セビリア近くの都市イタリカの貴族の家に生まれたとされる。85年に父親が亡くなると、従兄であり後に皇帝となるトラヤヌスに引き取られた。
ギリシャの歴史や哲学を含む高等教育を受ける中で、若き日のハドリアヌスはあまりにギリシャにのめり込んでいたため、「グレキュラス」すなわち「ギリシャっ子」とのあだ名を付けられたという。
ハドリアヌスは14歳でローマに移り住むと、出世の階段を上っていった。22歳の頃に後見人のトラヤヌスが皇帝になると、ハドリアヌスは軍事担当官、法務官、執政官など、様々な要職を歴任していく。
最も気に入っていたのは、111年から112年にかけてアテナイで得た役職かもしれない。ハドリアヌスは、アテナイ人によって市民権を授けられ、ギリシャの執政官「アルコン」に任命されている。
ハドリアヌスは、トラヤヌスのもとでローマ帝国の急速な拡大を経験した。トラヤヌスによる19年の治世の間に、ダキア(現在のルーマニア)やメソポタミア(現在のイラクのあたり)までもがローマ帝国の支配下に置かれた。トラヤヌスは西暦117年にシチリアで亡くなり、ハドリアヌスが皇帝の座を継いだ。
権力の座を盤石にした後の西暦122年、ハドリアヌスは帝国各地をめぐる壮大な旅に出た。故郷であるイベリアを訪れた後、徐々に東方へと移動していくものだった。3世紀の神学者テルトゥリアヌスは、ハドリアヌスの熱意は「あらゆるものに対する探求者」のそれだと記している。ハドリアヌスは鋭い軍人としての目と、好奇心旺盛な学者の目を併せ持っていた。
そんな彼の関心を、どこよりもかき立てる都市が、アテナイだった。西暦124年にハドリアヌスがこの地を再び訪れた時、アテナイ人は彼を大いに歓待したのだ。
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: 第14代ローマ皇帝・ハドリアヌス (1/3) ⨂⨁
ブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス (Publius Aelius Trajanus Hadrianus )、76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
皇帝即位からローマ還御まで
ハドリアヌスはローマで生まれた(原籍があるヒスパニア・バエティカのイタリカで生まれたとの説もある)。トラヤヌスの従兄弟の子である。
93年(または94年)、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、パンノニア、モエシア・インフェリオル及びゲルマニア・スペリオル各属州で高級軍団将校を務める。
その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。皇帝の演説を元老院で代読したのは、この時のことである。105年護民官に就任、ついで法務官(プラエトル)に任命された。
その後、軍団司令官として第2次ダキア戦争に従軍、この戦争で実績を重ね、107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。
114年から開始されたパルティア戦争では軍団の司令官に任命され、参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを属州シリアの総督に親任した。病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍の総司令官に親任し、ローマへ還御の途につく。
しかし、トラヤヌスはキリキア地方のセリヌスで不帰の人となった。崩御の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に勅定したが、これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。
8月9日、アンティオキア滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス崩御を報ずる書簡が届いた。このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」と歓呼された。
公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスはセリヌスに行幸し、弔問したあと、再びシリアへ戻る。その際、東部国境の安定化のため、属州メソポタミアとアルメニアの放棄を勅定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあったドナウ川流域に行幸し、属州ダキアと属州モエシアを再編成し、翌年7月、ようやくローマへ還御した。
ハドリアヌスの帝位継承については、元老院議員の一部から異論が出るおそれがあった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスの勅命であったとする研究者もいる)。 ・・・・・・明日に続く
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= 孤独な皇帝ハドリアヌスの想い出 =
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