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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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ローマ帝国を強化と平準化したハドリアヌス皇帝(3/3); 歴史深層(028)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月11日<ⰧⰊⰧ

☆★ モハメド・アタを始めとしたアルカイダの19人のチームが、美しい国での警察の日を狙ってエクストリーム・カミカゼで世界新記録を樹立(2001年=アメリカ同時多発テロ事件)するも、1機未遂に終わって完全試合にはならず。☆★ 小泉純一郎の郵政民営化テロによって、民主党ばかりか領袖レベルの党内不満分子を粗方葬り去ることに成功(2005年)。☆★ ウケ狙いでやった福島第一原子力発電所絡みの報道が自爆テロだったことを、朝日新聞がエクストリーム・謝罪(2014年)。朝日ヘイターの政権当局は勿論、同業他社までも自分たちだって日常的に同じことをやってることを棚に上げて集中砲火する事態に。

本日記載附録(ブログ)

Publius Aelius Trajanus Hadrianus は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し国境安定化路線へと転換した。そこで皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始さた。

118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた。パンテオン神殿の再建に着手し、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。

私生活では、ビテュニアの美青年の愛人アンティノウスを寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ギリシャを偏愛し、ギリシャ風の髭を蓄え、アテナイに繁栄をもたらしたハドリアヌス皇帝……

◇◆ ローマよりアテナィに傾倒し、美青年を寵愛し、帝国の統合強化に長期旅行 =3/3= ◆◇

 パルテノン神殿よりも豪華なものにしたいと、ハドリアヌスは考えた。100本以上のコリント式の柱の上部には、最大限に手の込んだ、ギリシャ復興のシンボルであるアカンサスの葉の装飾を施した。アテナイのエリートたちは即座に皇帝の熱意に引き込まれ、計画を支持した。

 西暦128年の3度目のアテナイ訪問時、ハドリアヌスは、美青年として有名だった十代の愛人アンティノウスを連れていた。2人は、ギリシャ神話の秘密の儀式「エレウシスの秘儀」に参加したこともあった。

 西暦128年の3度目のアテナイ訪問時、ハドリアヌスは、美青年として有名だった十代の愛人アンティノウスを連れていた。2人は、ギリシャ神話の秘密の儀式「エレウシスの秘儀」に参加したこともあった。

 だがアテナイを発って訪れたエジプトで、ハドリアヌスはアンティノウスを亡くす。西暦130年、ナイル川を移動中に起きた不審な溺死だった。1年後、いまだ悲しみに暮れるハドリアヌスは、ゼウス神殿の奉献式のために最後のアテナイ訪問を行った。

 帝国マネーがなだれ込んだアテナイは建築ラッシュだった。皇帝の4度目の訪問を歓迎するためのハドリアヌスの凱旋門は完成したばかりで、他にも大規模なプロジェクトが進行中だった。ゼウス神殿には象牙と金でできた巨大なゼウス像が収められた。2世紀の歴史家パウサニアスは、ロドス島とローマの巨像の他にその大きさを超えるものはないと書いている。

 この滞在中も、皇帝は精力的だった。ギリシャ都市同盟「パンヘレニオン」を創設し、毎年集会や試合を開催することとした。この連合はあくまで、文化的かつ象徴的なものだったと考えられている。さらに、アテナイ史上最大の図書館(ハドリアヌスの図書館)を建設することも決められた。書物のための上層階と、アーチで覆われた庭園と池のある中庭があるものだ。

 西暦132年を最後に、ハドリアヌスがアテナイを訪れることはなかった。138年、ナポリ近郊でハドリアヌスは亡くなった。彼がアテナイに残したものは、しばらくの間、存続したものの、それらも時の流れとともに廃れていった。最後にパンヘレニオンが開催されたのは西暦250年代。267年にはゲルマンのヘルール族に襲撃を受け、アテナイの多くの建造物が破壊され、都市としての規模や重要性も縮小した。

 ハドリアヌスの死から200年が経った西暦330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスがビザンチウム(現在のトルコ、イスタンブール)に帝国の中心地を建設する。こうして文化の中心はアテナイではなく、さらに東のビザンチウムとなったのである。

次回は“「シェフの王」アントナン・カレームの物語”に続く・・・

⨁⨂参考資料: 第14代ローマ皇帝・ハドリアヌス (3/3) ⨂⨁

皇帝と元老院との関係
ハドリアヌスはその治世を通じ、国内外において目覚しい成果を挙げた。しかし、元老院にはハドリアヌスの政策をよしとしない者がいたことも事実である。

まず、治世当初の執政官経験者4名の殺害はこれを反映している。ハドリアヌスは、防衛に必要な兵力や維持費等の負担増に耐え切れないと判断して、メソポタミア、アッシリア、アルメニアから撤退するという現実路線に切り換えた。

ところが、当時の元老院には実際に戦場へ赴いて領土拡大に貢献した者もおり、ハドリアヌスの対外政策には批判的な者がいた。元老院の一部には、激しく反発するものもいたのであろう。これに対してハドリアヌス擁護派は、反対派の大物4人を粛清するという強硬策に訴えた。

治世末期の後継者選びの際にも、意見の不一致から義兄弟ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスとその孫ペダニウス・フスクスを自殺に追いこんだ。そのため治世末期、皇帝と元老院の関係は緊張していた。しかし、いくつかのグループとの関係が緊張していたにすぎないと見る向きもある。

皇帝の崩御後、元老院では、ハドリアヌスを神格化し国家神の列の加えることに反対する動きがあった。神格化されないと、ドミティアヌス帝のように記憶の抹殺が行われ、ハドリアヌスの統治に関する行為はすべて抹消されることになる。後継者のアントニヌス帝は涙を流しながら必死に元老院の説得に努め、ハドリアヌス神格化について元老院の同意を得ることができた。このため、アントニヌスはアントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになった。

ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。

文化面では118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手した]。そのほか、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。

私生活では、ビテュニアの美青年の愛人アンティノウス(アンティノオス)を寵愛し、属州アエギュプトゥス(エジプト)視察中にこの美青年がナイル川で事故死を遂げたあとは、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建したほか、帝国中にアンティノウス像を建てさせ、天空にアンティノウス座を作ったことが知られている。

もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ、幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷に制止された。また、自分の後継者と決めていたルキウス・アエリウス・カエサルが138年1月に死去するという悲運もあったが、翌月にはアントニヌスを養子とし、自らの後継とした。138年7月、バイアエ (Baiae) の別荘において62歳で崩御した。

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  =  Hadrian's Villa, Tivoli: A virtual tour  =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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森のなかえ

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