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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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弁護士ガンジーの決断_2/3 ; 歴史深層(010)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月19日<ⰧⰊⰧ

☆★ 中京商業が準決勝で5時間近くも甲子園で粘りながらやっと1点差で勝利(1933年)、この結果同校はこの年の甲子園で栄えある日本一となるが、81年後には同じ中京と名のつく高校が硬式と軟式の違いとは言え同様に準優勝で3日連続も粘った挙句日本一の座を手にした。☆★ 在日米軍が戦車7台・飛行機3機などを投入し、東宝砧撮影所に空と陸から攻撃(1948年=第3次東宝争議)、しかし全力を挙げて見逃す失態を犯したため6年後にゴジラが首都圏を破壊することに。☆★ 中日球場での名古屋対巨人の試合中、観客の捨てたタバコの吸い殻が紙屑に引火し火災が発生。瞬く間に火は燃え広がり球場は全焼、4人の死者を出す大惨事に(1951年)。

本日記載附録(ブログ)

小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した

遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した

13歳でカストゥルバと結婚(生涯の妻)、18歳で倫敦に渡り、インナー・テンプル法曹院に招聘され学ぶ

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー

◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事  「非暴力・不服従」はこうして生まれた =2/3= ◆◇

 ガンジーはチャンパランに足を踏み入れるとすぐに、彼自ら小作農の深刻な状況を悟った。手をこまぬいていては飢饉(ききん)が起きるかもしれない。小作契約により、彼らは土地の一部に食用作物ではなくインディゴを植えることを強制されていた。

 また、収穫したインディゴを定額で地主に売ることも取り決められていた。地主たちは収穫物の買い取り価格の値上げを拒む一方、地代を小作農が払えないほど高く引き上げようとしていた。小作農たちは地元当局に苦情を申し立てようとしたが、まったく相手にされなかった。ビハール州政府は地主たちの言いなりだったのである。

 これは、金と権力を持つ植民地主義者が地位と影響力を利用して、貧しい弱者から搾取する典型的な例だった。そして、ガンジーは決意を固める。南アフリカでイギリスの植民地支配に対抗すべく編み出した「市民的不服従」という手法を、母国で試すときが来たと。

市民的不服従
 ガンジーは、ロンドンで弁護士として訓練を受けた後、南アフリカのダーバンに住む裕福なインド人イスラム教徒が経営する船会社で働いた。1893年5月、ピーターマリッツバーグで肌の色を理由に1等室への乗車を拒まれ、列車から放り出されたとき、ガンジーはある“覚醒”を経験した。

「人として、インド人として、私には権利がないのだと悟った」と、のちに書いている。

 それ以降、ガンジーは社会改革運動に取り組むようになる。そして、迫害に暴力抜きで立ち向かう手段として、「真理の力」を意味する「サティヤーグラハ」という考え方を生み出した。この理性的なスタンスは、ある信念を表していた。それは、虐げられても自分自身が道徳的に正しくいられる人は、目的達成のために自らが苦しみ犠牲になる必要性を受け入れたなら、最後には強い迫害者を負かすことができるというものだった。

 インディゴ栽培の小作農と地主との争議に関わるようになったころにはすでに、ガンジーは自身の抗議手法を、「消極的な抵抗」ではなく「積極的な市民的不服従」へと発展させていた。チャンパランでは、多くの信奉者が彼の下に加わった。

 その協力を得て開いた会合で、小作農への不当な扱いを示す証拠が集められ、抗議とストライキが組織された。ビハール州のイギリス当局はガンジーを逮捕し、この地域からの退去を命じる。その過程で書かれたニュース記事はすでにインド全土に報道されていたが、彼の知名度の高さから、国際的にも関心が集まり始めていた。

 ガンジーは命令を拒んで裁判にかけられた。ここで中央政府が介入する。イギリス人地主の行状や地方役人との腐敗した関係が、綿密な調査には耐えられないと気づいていたのだろう。ガンジーへの起訴は取り下げられ、彼が委員を務める公式調査で争議の原因が調べられた。これが最終的に法律改正へとつながる。イギリス人地主はインド人小作農にインディゴ栽培を強制できなくなり、地代の値上げにも制限が設けられた。

 これはガンジーと、その流儀サティヤーグラハの勝利だった。ガンジーはサティヤーグラハを、インド各地のさまざまな争議に用いるようになる。イギリス側は対処に困り、あるときは交渉を試み、またあるときは彼を投獄した。しかし道徳的に正しい側に立つことは決してできず、最後には必ずといってよいほど、彼の要求を受け入れる羽目になるのだった。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 塩の行進 (2/3) ⨂⨁

塩の行進 
法を破ることなく塩の専売制度を改めるよう努力するために1930年3月2日、ガンディーはインド総督のアーウィン卿に完全独立を要求せず11項目の要求を提出し以下の手紙を書いた。

もし私の手紙があなたの心に訴えることができなければ、今月11日、塩法の規定を無視するために、私はアーシュラム(Ashram)の同僚たちと一緒に行進します。私は塩の専売制度を最も貧しい人々の観点から邪悪な法律だと考えます。独立運動は本質的にこの国で最も貧しい人々の為にあるので、独立運動は悪法という悪に対して始められるのです。

アーウィン卿はこの手紙に答えなかった。そこで1930年3月12日、ガンディーと約78人のサッティヤーグラハの支持者は徒歩でグジャラート州のダンディー海岸の村に向けて出発した。サーバルマティー川にあるスタート地点から240マイル(約380km)離れたところであった。

23日の経過の間に4つの県と48の村を通り、路上では人々の支援を受けた。行進の間、数千のサッティヤーグラハの人々や女流詩人のサロージニー・ナーイドゥがガンディーに加わった。

4月5日、海岸に到着するとAssociated Press社のリポーターのインタビューにガンディーは以下のように応じた。

この塩の行進の、初期の段階でハッピーエンディングと称され、また私にとって少なくとも自由への最後の闘争と称されることを神に感謝します。私は行進の間、一切の干渉をしなかった政府に賛辞を惜しみません。私は政府が干渉しなかったことは本当に心変わりか或いは政策の変更によるものだと信じたいと願います。立法議会内において示される悪意のある無視や横柄な態度を見れば、インドに対し、冷酷に搾取する政策はどんな犠牲を払っても存続されるということに疑いの余地はありません。

私がこの不干渉に与えられる唯一の解釈は、英国政府は--とても強いのだが--世界の世論に敏感になっていることだ。不服従が市民運動であり、ゆえに必然的に非暴力である限り、世界の世論は、極端な政治的扇動(市民的服従)への抑圧を許容しないでしょう。政府は行進を許容してきましたが、明日から無数の人々による塩法違反を許すかどうかは不明です。私は多くの人の反応がインド国民会議の決断に影響することを期待します。

翌日の朝、ガンディーは泥と塩の塊を掲げ「これ(訳者注:泥と塩の塊)で、私は大英帝国の土台を揺るがしたのだ」と言った。その後、ガンディーはインド人が合法的に生産できない塩を作るためにそれを煮始めた。ガンディーは数千の支持者に海岸のどこでも便利で落ち着ける所で塩を作り始めようと訴えた。 ・・・・・・明日に続く。

⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡

  =  ガンジー(「非暴力、不服従」を貫いたインド独立の父。) =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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