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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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弁護士ガンジーの決断_1/3 ; 歴史深層(009)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月18日<ⰧⰊⰧ

☆★ 1928年 - 三井財閥の大番頭・中上川彦次郎の娘・あきがにテノール歌手・藤原義江を追って2児を残してミラノへ出発。 そして、翌年のこの日 谷崎潤一郎と妻・千代子が離婚し谷崎の友人・佐藤春夫が千代子と再婚することを3人連名で発表。☆★ 尋常じゃないくらいのドシャ降りでバス2台が巻き込まれてしまい、飛騨川に100人以上もの乗客ごと押し流すことに(1968年)。結果的にダムを〆切って川底まで浚う手間にまでなったとか。☆★ インスタントラーメンで安藤さんとこに煮え湯を飲まされたマルちゃんが、赤狐と緑狸を使い魔として召喚しうどんとそばでリベンジを図る(1978年)。

本日記載附録(ブログ)

小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した

遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した

13歳でカストゥルバと結婚(生涯の妻)、18歳で倫敦に渡り、インナー・テンプル法曹院に招聘され学ぶ

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー

◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事  「非暴力・不服従」はこうして生まれた =1/3= ◆◇

ある覚醒
   南アフリカを列車で旅行中、ある個人的な出来事から、ガンジーは覚醒する。ピーターマリッツバーグで乗車した白人の男が、ガンジーが1等室にいることに文句をつけたのだ。3等席へ移るよう車掌に言われるが、ガンジーは1等室の切符を持っていることを理由に拒否する。

   すると警官が現れ、ガンジーは無理やり列車から降ろされたのだった。次の列車を待つ数時間に、彼はある決意をする。この比較的小さな出来事をなかったことにはしないこと、そしてこれからは、自分自身の権利のみならず南アフリカのインド人コミュニティーの権利のためにも立ち上がることを、心に誓ったのである。そこに住む人々の多くは、彼が経験したよりもはるかにひどい扱いを日常的に受けていた。

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   1915年1月に46歳でインドへ戻ったとき、モーハンダー・スカラムチャンド・ガンジーは、南アフリカでインド人コミュニティーの公民権運動をおこなった功績により、すでに国際的に認知されていた。それまでの21年間、彼は南アフリカで弁護士として活動していたのだ。

   ガンジーは、インドで「偉大なる魂」を意味する敬称「マハトマ」の名で広く知られていた。また、南アフリカと故郷グジャラート州に設立した「アシュラム(修行場)」で暮らす弟子たちにとっては、「バープー(お父さん)」でもあった。ガンジーにとって、インドでの公民権運動とイギリスからのインド独立の闘いに身を投じたことは、自然な成り行きだった。その流れで、彼は、イギリス支配の終結を求めて活動していた政党「インド国民会議派」に加わる。

 まだ南アフリカに住んでいたころ、ガンジーはインド国民会議派のリーダー、ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーから次のような助言を受けていた。インドで何か積極的な役割を担いたいのなら、インドの複雑な政治情勢を少なくとも1年かけてよく理解してからにすべきだ、と。この助言に従ったガンジーは、のちに、この穏健で良識あるゴーカレーのことを、自分の師であり指導者であると語っている。

インディゴ(藍)栽培の小作農
 1916年12月におこなわれたインド国民会議派の会合で、ある人物がガンジーに近づいてきた。ビハール州のヒマラヤ山麓のチャンパランからやって来た小作農のラジクマール・シュクラだった。彼はガンジーに、「チャンパランに来て、インディゴ栽培の小作農たちとイギリス人地主たちとの争議解決に手を貸してほしい」と依頼する。

   ガンジーは当初、この件を引き受けることに気が進まなかった。チャンパランのことを何も知らないし、インディゴ栽培の知識もなかったからだ(インディゴは染料の工業生産に使用されていた)。しかし、シュクラはガンジーの出席する会合すべてに現れ、繰り返し訴えたので、ついにガンジーはチャンパラン行きを承諾する。

・・・・・・明日に続く・・・

⨁⨂参考資料: 塩の行進 (1/3) ⨂⨁

塩の行進(しおのこうしん、Salt March / Dandi Satyagraha)とは、1930年にマハトマ・ガンディー並びに彼の支持者がイギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にグジャラート州アフマダーバードから同州南部ダーンディー海岸までの約386kmを行進した抗議行動のことである。

この行進は3月12日から4月6日まで続き、インドのイギリスからの独立運動における重要な転換点となった。

背景
1929年12月31日夜、インド国民会議はラーホールのラーヴィー川の土手で独立の旗を掲揚した。ガンディーや、ジャワハルラール・ネルーが率いるインド国民会議は1930年1月26日に完全に独立する(プールナ・スワラージ(インド完全独立))ことを決議した。

国民会議はAICCにおいて市民的不服従を勧める責任があると発表した。この運動はまたヒンドゥー教徒とイスラム教徒を一つにまとめるために、宗教的な色彩を排除することが必要だった。

ガンディーは非暴力市民的不服従運動があらゆる一連の抗議の基礎であると確信していた。彼の基本的な考え方の一つであるサッティヤーグラハはただの「受身の抵抗」以上のものを意味していた。

サッティヤーグラハはサンスクリットの言葉、アーグラハ(Agraha:説得)とサッティヤ(Satya:真実)を統合したものであった。ガンディーにとって、サッティヤーグラハを推進することが非暴力運動の強さの元になるということが重要であった。ガンディーの言葉の中に、以下のようなものがある。

サッティヤ(Satya)は愛を意味し、断固としていること(Agraha)は力を生み出すゆえに力と同じ意味合いで働く。つまり、真実と愛すなわち非暴力から生まれた力である。(もし)私達がサッティヤーグラハの人々でありサッティヤーグラハを申し出れば、私達自身が強くなることを信じることになるだろう。

私達は毎日だんだん強くなって生きている。力が強くなっていく中で、私達のサッティヤーグラハもより効果的になるし、我々もサッティヤーグラハを諦める機会を探し回るということも無くなるだろう。

2月初旬、ガンディーの関心はイギリスの塩の専売制度に向けられた。塩の専売制度は英国植民地支配を支える収入源だった。ガンディーは塩の専売制度を、非暴力による政治抗議の中心点とした。

インドにおけるイギリスの塩の専売制度が意味するところはイギリス政府以外で塩を作ったり売ったりする者は法によって裁かれ、刑に処されるものであった。

塩は海岸地域で簡単に労働者によって作られるものであるにもかかわらず、労働者は金を支払わざるを得ないものだった。ガンディーの選択は地域、階層、宗教、人種的な境界を越えて訴えるという重要な基準に適った。誰もが塩を必要としイギリスの塩への専売は全インド中に衝撃を与えた。

どの小作人もどの貴族階級も日常生活において塩がどれだけ重要か認識していたので、インド人に対し不公平なものである塩の専売制度に対する抗議は巧妙な選択だった。また塩の専売制度に対する抗議は良い選択だった。

というのも同時に塩の専売制度に対する抗議が大衆を動かすのに十分な力を発揮しているという意味で、国民会議中道派を疎外することはなかったからである。2月5日の新聞は、ガンディーが塩税に抗議するために市民的不服従運動を始めようとしていることを報じた。・・・・・・明日に続く。

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  =  ガンジー =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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