ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月17日<ⰧⰊⰧ
☆★ 源頼朝が、以仁王/ 後白河法皇の令旨を受けて「めんどくせー」と言いながら挙兵(1180年)。☆★ 昼間の軍務の最中じゃ生でプロ野球が観られねぇ!!との米軍の不満に応える格好で、横浜ゲーリック球場で照明に照らされながら野球選手が残業をすることに(1948年)。☆★ ビルがモニカとの不適切な関係を認め、スキャンダルによる政治の混乱を打開しようとする(1998年)。さりとて、ビルはヒラリー夫人の尻に敷かれたが、J.F.K.とM.Monroeの不適切な関係はFBIにして強権に封印された。
本日記載附録(ブログ)
クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)
ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも
紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…
◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=4/5= ◆◇
プトレマイオス朝の下での生活
プトレマイオス朝では、支配層はギリシャ人、被支配層がエジプト人と言う構造となり、300年間支配していた代々のファラオ達はギリシャ語を話しておりエジプト語を知らなかったと言います。クレオパトラのみがエジプト語を話せたそうです。
プトレマイオス朝のファラオは、ギリシャの古代オリンピックと同等の地位を与えられていた“プトレマイエイア際”と呼ばれる祭祀など、豪華なヘレニズム的なイベントを開催していました。
プトレマイオス朝王家の結婚には、姉アルシノエ2世と結婚したプトレマイオス2世から始まった兄弟姉妹結婚と、一夫多妻制の両方で確立されていました。これらの慣行はファラオの継承を固めることを意図したものだと言われています。
プトレマイオス朝の崩壊
首都アレクサンドリアの富と豊かさに対して市中では飢饉、横行する物価沸騰、そして腐敗しきった地方公務員による圧的な行政システムが蔓延っていました。
この不調は、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀初頭まで続き、プトレマイオス朝に対して不満を現したエジプト国民の不安は、ストライキ、神殿の略奪、武装強盗攻撃などの非行の形となり、一部の都市は完全に放棄されました。この様に、領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため王朝は徐々に衰退へと辿ります。
これと同時に、ローマとの関りが拡大されていき、ローマはアレクサンドリアで権力を広げていきました。長期にわたったプトレマイオス6世と8世の兄弟間の争いはローマによって仲裁され、プトレマイオス12世に対するアレクサンドリアの反乱はローマによって解決さると共にエジプトはローマの保護国となり、またプトレマイオス8世は彼の意志で彼が支配していたキュレネ王国をローマに譲渡しました。
プトレマイオス朝の最後のファラオとなったのは、あの有名なクレオパトラ7世(治世紀元前51〜30年)です。ローマのカエサルやマルクス・アントニウスと同盟を結びますが、最後には自殺し、エジプトの支配権はローマ帝国初代皇帝となるアウグストゥスに引き渡され、プトレマイオス王朝は終焉しました。
因みに、その後のエジプトでのローマの支配は西暦395年まで続きました。
新企画“マハトマ・ガンジーの決断”に続く・・・
⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =8/8= ⨂⨁
息子同然の男か、腹心の部下か:2人のブルトゥス
ブルトゥスが誰なのかについては、最も有力な説は、マルクス・ユニウス・ブルトゥスを指しているというものです。彼はカエサルの愛人セルウィリア(ラブレター事件の女性です)の息子で、元老院議員もありました。幼少時に実の父を亡くしており、実質カエサルを父として育った人物だった。カエサルもまた彼を愛し、厚遇してきました。
しかしカエサル暗殺に加わるよう説得され、それに応じてしまいます。彼の妻がカエサルに殺されたカトの娘だったということもあったようです。カトとはカエサルを会議で糾弾しようとしたあの人物です。そして、カトの娘もまた、女性で唯一カエサル暗殺に参加していました。
もう一人のブルトゥスは、カエサルの腹心中の腹心であったデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスではないかという説です。彼は前述のブルトゥスの従兄弟でもあり、カエサルに従ってガリア戦争やローマ内戦を戦い抜いた、苦楽を共にしてきた仲間でした。
彼は執政官(コンスル)にまで指名され、カエサルの遺言の中では第2相続人に指名されていたほどの人物だったのです。その彼がまさか自分の暗殺に加わり、自分を裏切るとは…という思いで、カエサルは「ブルトゥス、お前もか」と叫んだのかもしれません。
2人のブルトゥスとローマのその後
2人のブルトゥスやカエサル暗殺の一団は、実は元老院によって賞讃されました。カエサル嫌いの元老院ですから、これは有り得る話です。しかし、カエサルの後を継いだオクタヴィアヌスが力を付けていくに従い、またも対立が起きました。加えて、カエサルの部下だったアントニウスもまた、彼らを追討したのです。
戦上手のアントニウスの前に、2人のブルトゥスは敗北し、命を落とすこととなりました。そしてアントニウスとの抗争に勝利したオクタヴィアヌスが実権を握り、ついに皇帝となったのが前27年のこと。カエサルの死から約17年後でした。
ローマ史に燦然と輝く偉人・カエサル
多くの苦難やコンプレックスがありながら、カエサルは見事にそれを乗り越えてローマの頂点に立ちました。ただ彼のやり方が急であり、ドラスティックだったために、保守層の反発を招いたことは否定できません。もし彼が暗殺されずにいたら、皇帝になることはできたのでしょうか。もしそうなったとしたら、歴史はもしかすると大きく変わったのかもしれません。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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