ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月16日<ⰧⰊⰧ
☆★ 前の日にユダヤ人が騒いでいた嘆きの壁をアラブ人が大掃除。ユダヤ教の祈りの書までゴミ扱いしたことからユダヤ人が当局に抗議する事態に(1929年)。☆★ イタリアはミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会が連合国の空襲で徹底的に破壊されるも、最後の晩餐は主の恩寵故に奇跡的に残った(1943年)。☆★ 松井秀喜が高校生にしては度を越える強さ故に、試合相手の明徳義塾から徹底的にスルーされる。これで明徳義塾は試合での勝利を手にしたのに、日本中からブーイングの雨霰を浴びる破目に(1992年)。
本日記載附録(ブログ)
クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)
ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも
紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…
◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=4/5= ◆◇
アントニウスとの新婚旅行でアテネへ
アントニウスとトルコで結婚したクレオパトラはアテネまで新婚旅行に出かけます。そして、紀元前39年には二人の間にアレクサンドロス・ヘリオスと言う男の子とクレオパトラ・セレネと言う女の子の男女の双子が、紀元前36年にはプトレマイオス・ピラデルポスという男の子も誕生します。
さて、クレオパトラにぞっこんのアントニウスですが、ローマ帝国の一部であったトルコ南部を彼女にプレゼントしてしまいます。
紀元前33年、アントニウスとクレオパトラはトルコのエフェソスで冬を過ごし、年が明けるとアントニウスは妻オクタウィアと正式に離婚します。こうした振る舞いはローマ人の怒りをかき立てる結果になってしましました。
アレクサンドリアでの最期|クレオパトラの死因は毒蛇
一方のローマにいるオクタウィアヌスはアントニウスを追い落とすチャンスと捉え、大軍を率いてアントニウス・クレオパトラ連合軍に戦いを挑みます。これが、紀元前31年の「ギリシャ・アクティウムの海戦」です。この戦いでアントニウス・クレオパトラ軍は大敗を喫します。
アレクサンドリアに逃げ帰ったクレオパトラは「私は死んだと伝えて」と言い神殿に隠れてしまうのです。その言葉を真に受けたアントニウスは毒をあおって自殺。
その10日後にクレオパトラも毒蛇に身を噛ませ、アントニウスの後を追ってこの世を去ります。クレオパトラの死により、プトレマイオス朝は終焉となりました。
世界でも知らぬ人がいない程有名な歴史上の人物であるカエサルとクレオパトラとアントニウス。同時代に生き、権力と誘惑が導いたのは滅亡でしたが、3名とも後世に残る程、熱い人生だったのかと思います。
クレオパトラの死後、息子は処刑・病死
ちなみに二人の死後、クレオパトラの長男であるカエサルとの子カエサリオンは、オクタウィアヌスにより処刑されてしまいます。そして、アントニウスとの子、双子の男の子アレクサンドロス・ヘリオスと最後に生まれたプトレマイオス・ピラデルポスは直ぐに病死してしまいます。
クレオパトラの子孫は残っている?
一方、クレオパトラの双子の女の子クレオパトラ・セレネ2世はローマに連れて行かれ、アントニウスの前妻でオクタウィアヌスの姉であるオクタウィアが育て上げ、後にローマの名門家に嫁ぎました。
クレオパトラと浮気されたのちに一方的に離婚を突き付けられたにもかかわらず、遺児となったアントニウスとクレオパトラの子を引き取って養育したオクタウィア…かなり懐が深い女性だったのでしょう…。
クレオパトラ・セレネ2世はユバ2世との間にプトレマイオス・トロメウス(男子)とドルシッラ(女子)の2人の子どもを授かっているため、クレオパトラの血はエジプトではなくローマの地で受け継がれているのかもしれません。
クレオパトラの墓はどこにある?
クレオパトラの墓はまだ見つかっていませんが、アントニウスとともにアレクサンドリアの西方にある神殿跡付近に埋葬されているのではないかと目され、発掘作業が続けられています。
一説には、クレオパトラとアントニウスは自分たちの墓が時の支配者たちに荒らされるのではないかと恐れ、見つかりにくい場所に隠したのではないかと考えられているようです。
・・・・・・明日に続く・・・
⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =7/8= ⨂⨁
「来た、見た、勝った」の戦い
その後、カエサルはさらに勢力を広げる。黒海南岸東部、現在のトルコの一部にあったポントスとの戦いに勝った彼は、ローマへの勝利報告として「来た、見た、勝った(Veni, vedi, vicious)」という簡潔明瞭な手紙を送っています。この言葉も有名です。
また、北アフリカの地でいまだ抵抗を続けていた元老院勢力にも勝った彼は、前46年、ついにローマへ凱旋しました。その威風堂々たる姿に市民は熱狂し、彼の権力は確固たるものとなったのです。ここにはクレオパトラとカエサリオンも伴っていた。そしてポンペイウス一派の残党も一掃し、前45年にローマ内戦は終結する。
カエサルの独裁化
ローマへ凱旋した彼は、元老院派の抵抗も抑え込み、ついに古代からの共和政ローマの改革へ乗り出す。彼が就任したのは、終身独裁官という地位でした。独裁官(ディクタトル)とは国家の非常事態に1人任命されてきた役職で、強大な権限を持っていたのです。
それを終身務めるとしたことは、まさに彼が帝政を目指していると周囲には受け取られました。また、カエサルが「共和政ローマは白昼夢のようなものだ」と発言したり、自分の言葉が法律であるといった趣旨の発言をしたり、これがカエサルの決意だと思われたのでしょう。もちろん、反対者もいた。
長く共和政を保ってきたローマにはまだまだ多くの共和主義者が存在してた。
彼らはカエサルのやり方に大きな危機感を持ち、やがてそれは彼を排除しなければならないという過激な方向へと動き出していくのです。
カエサル、暗殺さる
前44年3月15日、カエサルは元老院会議へ出席するために、議場であるポンペイウス劇場へ向かいました。実はこの時、カエサルの妻は前夜に悪夢を見たから行かないでほしいと彼を止めています。また、占い師も彼に「3月15日に注意せよ」と警告していたのだそうです。しかし彼はその言葉を容れず、ポンペイウス劇場へ足を踏み入れました。
その時、列柱の影から幾人もの影が飛び出し、彼に襲い掛かりました。彼は抵抗する間もなく、全身に23もの刺し傷を受けてその場で絶命しました。皇帝への階段をあと数段残したところで、彼は転げ落ちたのです。56歳でした。
暗殺の当事者たちは、カエサルの独裁化に反発する一団でした。その中には、カエサルの見知った顔も多く含まれていたのです。そのため、彼は刺される直前にこう叫びました。「ブルトゥス、お前もか」と。これもまた有名な言葉ですよね。 ・・・・・・明日に続く・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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