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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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クレオパトラ Vs ローマ帝国_3/5 /史跡真相=006

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月15日<ⰧⰊⰧ

☆★ 不景気の憂さを踊って晴らそう!という趣旨で、この日から五日間日比谷公園で盆踊り(1932年)。この時流れた音楽がやがて全国津々浦々の盆踊りで流れる流行歌に。☆★ ヒトラーもムッソリーニも既に死んでいるのに神州不滅を信じて日本列島での地上戦をもやり兼ねなかったのが、突然白旗を挙げたことで連合国の兵士も市民も戦争が終わった!と狂喜乱舞(1945年)。☆★ 第二次世界大戦の勝利を享受した若者たちが、ニューヨーク州の広い野っ原にて3日連荘でロックを大音量で流して大騒ぎ(1969年=ウッドストック・フェスティバルが開幕)。

本日記載附録(ブログ)

クレオパトラ7世フィロバトル;古代エジプト、プトラマイオス朝のファラオ(最後の女王)

ガイリス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られ、「絶世の美女」とも

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、遺言によって弟プトラマイオス13世と共同で王位に就く

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

イチジクに忍ばせていたコブラに乳房を噛ませて自殺したとも…

◇◆ クレオパトラの激動の生涯と逸話絶世の美女が歴史に残したものとは?=3/5= ◆◇

アントニウスとトルコ南部の街で結婚
紀元前41年、アントニウスは東方での力を維持するため、また軍事費のためにエジプトの豊富な資源を目当てにエジプトと組もうと画策します。共和派を支援していたクレオパトラの出頭を名目として、アントニウスが居を構えていた現在のトルコ南東部キリキアの首都タスソス(現メルスィン県タルスス)にクレオパトラを招待します。

クレオパトラは失った土地を取り戻すための好機と捉えこの招待を受け入れ、アレクサンドリアから豪華な船でアントニウスの元へ向かいます。その際クレオパトラは、まるで女神のような姿に着飾っていたと言われています。

現れたクレオパトラを見てアントニウスは魅了されて惚れてしまいます。アントニウスのハートを射止めたクレオパトラはトルコ南部の街アンティオキア(現在のハタイ県アンタキア)でアントニウスと結婚式を挙げます。

このようにエジプト女王のクレオパトラは、実はトルコにも来ていたのです。クレオパトラがタルススに入る際にくぐった門は「クレオパトラ門」として今でも残っています。

ただ、アントニウスにはローマ人の妻がいました。勢力を二分するオクタウィアヌスの姉オクタウィアです。アントニウスは今で言う重婚の罪を犯したのです。

このアントニウスの行為は、義兄オクタビアヌスを怒らせたばかりか、アントニウスとクレオパトラに対するローマ人の反感をも募らせました。このアントニウスとクレオパトラの傍若無人とも思える行動が、後の2人の悲劇に繋がっていくのです。

このようにエジプト女王のクレオパトラは、実はトルコにも来ていたのです。クレオパトラがタルススに入る際にくぐった門は「クレオパトラ門」として今でも残っています。

ただ、アントニウスにはローマ人の妻がいました。勢力を二分するオクタウィアヌスの姉オクタウィアです。アントニウスは今で言う重婚の罪を犯したのです。

このアントニウスの行為は、義兄オクタビアヌスを怒らせたばかりか、アントニウスとクレオパトラに対するローマ人の反感をも募らせました。このアントニウスとクレオパトラの傍若無人とも思える行動が、後の2人の悲劇に繋がっていくのです。

妹アルシノエ4世の暗殺
なお、クレオパトラはアントニウスに頼んで、クレオパトラの脅威となっていた、エフェソスで幽閉されていた妹のアルシノエ4世を殺させています。

アルシノエ4世はアルテミス神殿の神官により当時不可侵であった神殿内に避難していましたが、不可侵を破ってアントニウスが神殿の階段で彼女を殺したと言われています。

エフェソス遺跡の中央ケルスス図書館の前、丘の上の住宅の前には八角形のオクタゴンと言われる墓があり、そこから15~18歳の遺骨が見つかっています。その後のDNA鑑定から、北アフリカの血を引く女性であることが解っているため、恐らくこれがアルシノエ4世の遺骨ではないかと言われています。

・・・・・・明日に続く・・・

⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =6/8= ⨂⨁

賽は投げられた!カエサル、ローマを掌握
前53年、前記のごとく、クラッススが戦死したことで三頭政治の均衡が崩れる。ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが亡くなったことで、残されたカエサルとポンペイウスの中も微妙なものになり、緊張が高まっていった。

そして、カエサルは突然ガリア属州総督を解任され、ローマ本国への召喚命令が出されたのです。前にも述べた通り、ガリア戦争で力をつけたカエサルを警戒した元老院によるものでしたが、事実上の「お前を潰してやるぞ」という脅しだったわけですね。

これに大人しく従うカエサルではありません。戻れば殺されるのは目に見えており、かといってこのままガリアに留まれば、反逆者とみなされてしまいます。前49年1月10日、カエサルとその軍はルビコン川の河畔にやって来ていました。ルビコン川とはイタリア本土と属州の境界線でもあり、軍を率いてここを渡ることは国家反逆と同じことでした。

ここでカエサルは叫びます。「賽は投げられた!」そして軍を鼓舞し、一気にルビコン川を渡ったのです。彼がイタリア半島を掌握するのに、時間はさほどかかりませんでした。というのも、ポンペイウスはカエサルの進攻の速さに軍を整えるのが間に合わず、自身の勢力基盤であるギリシャへ逃げてしまった。

エジプト女王クレオパトラとの恋
ポンペイウスなど敵対勢力と繰り広げた戦乱は、ローマ内戦と呼ばれています。カエサルはこのほとんどに勝利を収め、ポンペイウスはエジプトへ逃げ、カエサルはその後を追撃した。しかし、ポンペイウスはエジプト王の計略によって暗殺されてしまう。その直後にカエサルが到着し、これまた内戦の真っ最中だったエジプト王とその姉王の仲介に乗り出すのです。この姉王こそ、カエサル最大の愛人・クレオパトラだった。

一時は政権を追われたクレオパトラは、ローマを掌握したカエサルの力を借りようと考えます。そして、一説には絨毯にその身を包ませ、自分自身を貢物としてカエサルに献上し、面会を果たしたのだそうです。

クレオパトラは美女として名高く、才女でもありました。女たらしのカエサルが惹かれないわけがありません。愛人関係となった2人は、クレオパトラの弟王を駆逐し、エジプトの支配者となる。この頃、2人の間にはカエサリオンという男児も生まれています。  ・・・・・・明日に続く・・・

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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