ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月20日<ⰧⰊⰧ
☆★ 日本で小学校令が改正。授業料が無料化、それをきっかけに子を小学校に行かせる親が急増。その日に500万人の子供が自由を奪われ、胡乱になったとか(1900年)。☆★ 人やら馬やら路面電車・自動車やら、おまわりさんの手に負えないくらい交通量が多くなった東京の34地点で3色灯自動信号機が取り付けられる(1930年)。見物人が屯することになり益々混乱。☆★ プラハでソ連主催による5,000輛の戦車による戦車道のデモンストレーションが始まる(1968年= プラハの春: チェコ事件)。
本日記載附録(ブログ)
小学校時代は素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律を破り、タバコにも手を出した
遊ぶ金を工面する為に召し使いの金を盗み取ったことも、肉食をも繰り返した
13歳でカストゥルバと結婚(生涯の妻)、18歳で倫敦に渡り、インナー・テンプル法曹院に招聘され学ぶ
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と欧州の哲理根幹を否定したガンジー
◇◆ ガンジーを覚醒させた出来事 「非暴力・不服従」はこうして生まれた =3/3= ◆◇
塩の行進
ガンジーの最も有名な抗議活動の1つは、1930年3月に始まった。イギリスによる塩税導入に反対するサティヤーグラハだ。この課税は、塩の採取と販売の独占権を事実上イギリスに与えるものだった。実はその数カ月前に、インド国民会議派が独立宣言を出し、イギリスに黙殺されるという出来事があった。
ガンジーの政治仲間の多くは、彼の行動に困惑していた。独立というはるかに大きな問題に比べれば、塩税は、不当であるとはいえ重要性はかなり低い。そんなものに執拗に没頭するガンジーのことが理解できなかったのだ。
ガンジーは抗議の手始めとして、製塩をおこなう小さな村グジャラートの海岸沿いをダーンディー海岸まで、アシュラムの弟子たちとともに、24日間かけて歩いた。その距離390キロ。これは「塩の行進」と呼ばれるようになり、世界中の新聞やニュース映画で大々的に取り上げられた。あるときガンジーは海岸で数千人を前に、塩を含んだ泥を一握りすくい上げて言った。
「私はこれで、大英帝国の土台を揺るがそうとしている」。さらに彼は、法律を破るという手段に出た。泥の混じった海水を沸かして塩を作り、塩税を払わなかったのだ。
数百万人のインド人がガンジーの例に倣い、6万人以上がイギリス当局に逮捕された。ガンジー自身も1年近く収監されたが、1931年の初めに釈放される。インド総督と紛争の解決に向けた交渉に当たらせるためだった。
独立
この交渉の結果、ガンジーは、インドでの憲法改正の議論にイギリスが同意すれば市民的不服従の運動をやめると約束した。塩の抗議の目的は、独立運動がインドの一般大衆の間で再燃し、国内でも全世界でも再び注目されるようにすることだった。イギリスがインドからの退去に最終的に同意するまでには、さらに16年を要し、この間、ガンジーは市民的不服従の運動をさらに起こした。そして1947年8月15日、インドは大英帝国の自治領となり、単独の国としての地位を獲得する。
しかしながら、ガンジーにとってこれはほろ苦い勝利だった。彼はヒンドゥー教徒とイスラム教徒との団結を、生涯にわたって奨励していたからだ。英領インドは宗教の境界線に沿ってインドとパキスタンに分割され、この分離は激しい暴力と、100万人にも及ぶ犠牲者をもたらした。
インドは1950年1月26日に共和国となったが、ガンジーがこれを目にすることはなかった。ヒンドゥー教の過激派に銃撃され、1948年1月30日にこの世を去っていたのだ。しかし、彼が築いた寛容と非暴力の遺産は今もインドに息づいている。
そしてガンジーの流儀は国境を越え、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動、南アフリカのネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動など、迫害に苦しむ人々の闘争に用いられてきた。ガンジーは今も、「インド建国の父」として、また、結果がどうなろうと自分の主義を生涯貫き通す覚悟を持ち、正義とインドの人々の権利のために闘ったからこそ成功した男として、記憶されている。
次回は“大統領ルーズベルトの決断”に続く・・・
⨁⨂参考資料: 塩の行進 (3/3) ⨂⨁
余波
塩の行進は全インド中に同様の非暴力不服従運動を及ぼした。塩の専売制度を巡る非暴力の「戦い」は4月13日まで続いた。同時に英国製の服や商品の不買運動がおきた。インドの海岸のいたるところで塩が「非合法的に」販売された。ガンディーが作った最初の塩は1600ルピー(当時の750ドルに相当)で売られた。塩の行進の反応の中で英国政府は4月末までに6000人以上の人々を投獄した。
ペシャーワルではサッティヤーグラハはガンディーの弟子でイスラム教徒のパシュトゥーン人、カーン・アブドゥル・ガッファール・カーンによって繰り広げられた。彼はクダーイー・キドマトガルと呼ばれる非暴力運動家の兵士を訓練した。1930年4月23日、カーンは逮捕された。クダーイー・キドマトガルの群衆がペシャーワルの市場に集まった。
英国政府は武装していない彼等や他の群衆に発砲した複数の記事によると、群衆は非暴力の運動に教化され行動していた。前列の人々が倒れたらば後列の人々が前進し銃火に晒された。この衝突は朝11時から夕方5時まで続いた。
1930年5月4日の夜、ガンディーがダンディー海岸の近くの村のマンゴーの木の下にある簡易ベッドの上で眠っていた夜半過ぎにスーラトの警察判事(the District Magistrate)が2人のインド人と30人の重装備した警官を同伴し彼を法違反で逮捕した。
塩の行進は植民地国家の地着民衆が動いたことで植民地政策を行っている国家の関心事となった。ガンディーは刑務所から釈放された後もインドの独立へ向けて働き続け1947年、インドは独立した。ガンディーはインド独立の一つの転換点となった要素は否めない。だが彼についての経済的な評価は揺れている。
2005年における行進
75周年の記念日に塩の行進を記念して、マハトマ・ガンディー財団は塩の行進を再現しようと提案した。そのイベントは「平和、正義と自由の為の国際的行進("International Walk for Peace, Justice and Freedom")」として知られる。マハトマ・ガンディーの曾孫のトゥシャール・ガンディーと数百の人々はダンディまで同じルートでほぼ同じ時間掛けて歩こうとした。
2005年3月12日のアフマダーバードでの出発の日、ソニア・ガンディーやNAC議長、インドの内閣のほぼ半分が出席し彼等の多くは最初の数キロを歩いた。4月5日夜に参加者はダンディー海岸に到着し7日、記念は終わった。
⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡
= 【非暴力非服従!】ガンジーって結局何をした人なの? =
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
前節へ移行 : https://blog.goo.ne.jp/bothukemon/e/56d849124719fe4259863f51e349913e
後節へ移行 : http://blog.goo.ne.jp/史跡深層012/xxx
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【喜色一笑;歴史自講】 :https://hourou8855desu.seesaa.net/
【浪漫孤鴻;時事自講】 :http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【壺公夢想;如水総覧】 :https://thubokou.wordpress.com/
================================================
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================