◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ ◎
○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○
◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ≪第一部・子女≫マリア・テレーズ・シャロット =2/5= ◇◆
【マリア・テレーズ・シャロット ② / ウイキペディアより】
1797年、この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。
フェルセン伯爵は、マリー・アントワネットがマリー・テレーズのために親類や友人に分散して残した金と宝石を取り戻し、彼女が相続できるように各国の宮廷を奔走した。 フランツ2世がそのほとんどを手に入れていたが、1797年2月24日の謁見でフランツ2世は、マリー・テレーズが相続すべき財産の所有を認め、後に彼女の持参金にするとフェルセン伯に答えた。 フランツ2世はマリー・テレーズを自分の弟のカール大公と結婚させて、フランスの利権を手に入れようと考えていたが、彼女はブルボン家の叔父が薦める父方の従兄のアングレーム公ルイ・アントワーヌとの結婚を選び、ヨーロッパ大陸の味方が欲しかったフランツ2世も黙認した。
ウィーン宮廷では、ナポリ王国出身の従姉、フランツ2世の皇后マリア・テレジアと互いを嫌いあったが、皇帝の妹マリア・クレメンティーナ大公女、マリア・アマーリア大公女とは親しく、1798年にマリア・アマーリアが死去した際には非常に悲しんだ。 他方、スペイン・ブルボン家のカルロス4世はマリー・テレーズに年俸を与えると同意し、フランツ2世はミタウまでの旅費を負担すると約束した。 トリーア選定候クレマンス・フォン・サクセンから、革命以前に夭逝した弟ルイ・ジョゼフの肖像画と父ルイ16世が断頭台で身に着けていた血で汚れた肌着を受け取り、それらを持ってミタウへと旅立った。
流転の亡命生活 / クールラント
1789年春、叔父ルイ18世夫妻の亡命地ロシア領クールラントのミタウ城に到着した。 彼女はルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面したが、神父は涙ぐみ言葉にならなかった。 マリー・テレーズは同年6月10日、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚した。 結婚祝いにルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せると、新郎新婦は抱き合って泣いた。 当時のロシア皇帝パーヴェル1世は、署名入りのロシアの結婚証明書に豪華なダイヤモンドのアクセサリー一式と金がつまった財布、帽子とガウンを山のように贈った。 マリー・テレーズの勇気を褒め称え、フランスに帰国できるまでロシア領滞在を認める手紙も添えられていた。 彼女はパーヴェル1世に、自分の家族に尽力してくれた礼を述べている。
この頃のマリー・テレーズについてルイ18世は「両親にそれぞれ似ており、身長は母親ほど高くないが、かわいそうな妹よりは高い。 軽やかに優雅に歩き、悲運を語る時涙は見せない。 善良で親切で優しい」と弟のアルトワ伯爵(後のシャルル10世)宛ての手紙で評した。 この結婚はアングレーム公の父アルトワ伯が、王政復古が成った際に気の毒な王女とともにフランスに戻ることでイメージアップを図る狙いがあったようである。
アングレーム公とは愛し合っていたが、子供が出来ず、亡命中のアングレーム公は対ナポレオン戦線に加わることを望んだ。 1800年4月、ナポレオンが第2次イタリア戦役を開始すると、アングレーム公はコンデ公と共に戦うためミタウを去った。 この結果、夫婦はイギリスで合流するまで、長年離れて生活せねばならなかった。 5月、ミタウを訪問したフェルセン伯は、マリー・テレーズから生きる気力を感じれられず、結婚生活が不幸なのではと考えた。 その後、父の処刑に賛成票を入れたオルレアン公の長男ルイ・フィリップ(後のフランス王)がやってきたが、マリー・テレーズは面会すら拒んでいる。
1801年1月22日、ルイ18世はパーヴェル1世から、ロシア領からの退去命令を受ける。 マリー・テレーズにはサンクトペテルブルクで自分の客として過ごすよう薦めた。 しかしマリー・テレーズは、叔父の2台の馬車の一行に加わった。 真冬のロシアから行き先もない旅をするため、家具を売却して旅費に充てた。 旅費も乏しい極寒の旅の最中、ルイ18世の秘書であり、マリー・テレーズの聞罪司祭だったマリー神父が自殺する。 彼は最期に「ド・ショワジー嬢」と彼女の侍女の名前を残していた。 マリー・テレーズは聖職者の密かな恋を知り、ショックを受ける。
ルイ18世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に滞在許可を求める手紙を送り、マーメル滞在中にプロイセン王から、ナポレオンを刺激したくないのでフランスの許可を先に待つという返事を受け取る。 マリー・テレーズは母の幼馴染フレーデリケの娘、プロイセン王妃ルイーズからサンクトペテルブルクに安全な場所を提供されるが、「叔父を見捨てられない、私は我々全員の場所を求めている」と断った。 その後ルイーズ王妃は「ナポレオンがルイ18世はリル伯爵、マリー・テレーズはラ・メイユレイ侯爵夫人と名乗る条件付きで、この一家と側近をワルシャワに滞在許可を出した」という手紙をマリー・テレーズに送った。 ルイーズ王妃はその後も王に代わり、フランス亡命宮廷のためにナポレオンや各国の王族と交渉し続け、マリー・テレーズの頼れる友となった。
流転の亡命生活 / ワルシャワ
1801ねん3月6日、一行はワルシャワに到着した。 数週間後、休暇をとったアングレーム公が到着した。 その直後、パーヴェル1世の暗殺に息子アレクサンドル1世が関わっていたことを知る。 アレクサンドル1世はブルボン家にあまり関心を示さず、父が支払っていた半額以下の手当しか出さなかった。 しかし、ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキの曾孫であるルイ18世と、熱心なカトリック信者であるマリー・テレーズは、ワルシャワで非常に歓迎された。
ワルシャワではヴェルサイユのように宮廷儀礼が作られ、彼女はフランス亡命貴族の支援や修道院や貧民を見舞う慈善事業も行った。 ポーランド貴族たちは、亡命宮廷がレシチニスキ宮殿で夏を過ごすよう手配した。 この頃、ルイ18世は政治的な相談についてマリー・テレーズを頼るようになった。
ワルシャワにフランス王室が定住すると、ミタウやヨーロッパ各国からルイ18世のために廷臣たちが集まった。 カルロス4世やフランツ2世、アルトワ伯からの送金だけでは宮廷費がまかなえず、マリー・テレーズはパーヴァル1世から贈られた豪華なダイヤモンドを売却した。 ルイ16世に仕え、ルイ18世の側近となったユー男爵は、1801年から1802年の冬の厳しさ、マリー・テレーズの倹約、そして彼女がよく泣いていたことを記録している。
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森のなかえ
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