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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =30=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ≪第一部・子女≫マリア・テレーズ・シャロット =1/5= ◇◆

追考として、一部:マリー・アントワネットの子女、二部:王妃の周囲の重要な人々/ マリア・テレシア(前節イラスト参照) / デュ・バリー夫人 (前節イラスト参照) / フェルセン伯爵  / ポリニャック夫人 / エリザベート 等々を記述しよう。 因みに、子女については、マリア・テレーズ・シャロットとルイ・シャルルを記述し、生誕後まもなく他界したルイ・ジョセフ・グザヴィエ・フランソワーとマリー・ソフィー・ベアトリスは割愛する。 尚、4人の子供たちはいずれも子を残していないため、直系の子孫はいない。

【マリア・テレーズ・シャロット ① / ウイキペディアより】

マリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネットの長子、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。 夫妻の結婚から7年目にしてようやく生まれた子供であった。 名前は祖母である「女帝」マリア・テレジアの名のフランス語形である。 幼少期はブルボン家ハプスブルク家の血を引くことに誇りを持ち、プライドが高く、少しこましゃっくれた性格であった。 9歳の頃、ヴェルモン神父から母が落馬したが無事だったという話を聞かされたマリー・テレーズは「もし母が死んだら何をしても自由だったのに」と答え、神父を唖然とさせた。 養育係が誤って彼女の足を踏みつけたが、その日の晩に傷ついた足に乾いた血がついているのに気づいた養育係は「なぜ足を踏まれた際に何も言わなかったのか」と聞くと、「あなたが私に怪我をさせて私が痛がっているとき、あなたが原因だと知ったらあなたの方が傷ついたでしょう」と答えたというエピソードがある。

マリー・テレーズはまだ幼い頃から、自分の体重と同じぐらいの重さのパニエ(下着の一種)を身に着け、公式行事や社交の場に顔を出していたため、幼い頃から母への悪口を耳にしていた。 1789年5月5日の三部会では、両親に恥をかかせたオルレアン公爵(後のフィリップ・エガリテ)や民衆を憎んだ。 それでもフランス革命以前は、人々からマダム・ロワィヤル(Madame Royale)の称号(第一王女に授けられる)で呼ばれ、愛された。

10歳の頃、1778年7月31日にヴェルサイユ宮の小間使いが出産したマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケが、マリー・テレーズの遊び友達として迎えられた。 この少女はマリー・テレーズと瓜二つだったと言う。 1788年4月30日にマリー・フィリピーヌの母フィリピーヌが亡くなると、マリー・アントワネットはエルネスティーヌと改名させ、養女にした。 ルイ16世はエルエスティーヌのために部屋を用意させ、高価なピアノやドレスを買い与えた。 マリー・テレーズは弟のルイ・シャルルとともに、養育係のトゥルゼル夫人の娘、ポーリーヌ・ド・トゥルゼルによくなついた。

1789年10月6日、マリー・テレーズは家族や廷臣と共にチュイルリー宮殿に軟禁される。 そして、1790年4月4日、エルネスティーヌとともに父から聖体拝領を受けた。 1791年6月21日、ヴァレンヌ事件が起きたが、前日にエルネスティーヌは父ジャックを訪問するため宮殿を離れていた。 1792年8月9日、チュイルリー宮が襲撃される。 

かねてからマリー・アントワネットよりエルネスティーヌの安全を命じられていたマリー・テレーズの教育係ド・スシー夫人は、エルネスティーヌを連れてチュイルリー宮を脱出。 しかし、8月13日、マリー・テレーズはタンプル塔に監禁された。 父母と叔母エリザベート王女は革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離され、2年近く1人で幽閉生活を強いられていた。

マリー・テレーズは国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答え、国民公会面会者からの質問には全く答えなかった。 また、幽閉されてから病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、ルイ・シャルルに治療を施すようにと何度も国民公会に手紙を送った。 マリー・テレーズの部屋では下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえてきた。 少女の慰めはエリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であったと言う。

ロベスピエール処刑以降は待遇が良くなり、1795年7月、身の回りの世話をするアルサス出身のマドレーヌ・エリザベート・ルネ・イレール・ボッケ・ド・シャトレンヌ夫人が雇われた。 30歳のド・シャトレンヌ夫人はマリー・テレーズのために衣類や筆記用具や本などを差し入れ、庭園を散歩をする許可を得て、ルイ・シャルルの愛犬スパニエル雑種の「ココ」をペットとして部屋に呼んだ。 ド・シャトレンヌ夫人は硬く口止めされていたが、次第に彼女が気の毒になり、それまで伏せられていた母と叔母の処刑を知らせた。

また、誰ともほとんど会話をすることのないまま2年近くを過ごしたマリー・テレーズの発声異常を、ド・シャトレンヌ夫人は手助けした。 しかし、彼女のガリガリと話す発声異常は生涯治ることはなかった。 マリー・テレーズはド・シャトレンヌ夫人と親しくなると「愛しいルネット」と呼ぶようになる。

この頃のフランス国民は、幽閉されたままのマリー・テレーズに同情的になっており、彼女が散歩に出られるようになるとルイ16世の近侍フランソワ・ユーは近くに部屋を借り、大きな声で歌ったり、かつて王室で使われた暗号を使用して彼女に手紙を送った。 タンプル塔近くのボージョレ通りは、マリー・テレーズを見学しようとする野次馬であふれ、民衆の関心を集めて行った。

流転の亡命生活 / オーストリア

1795年7月30日、マリー・テレーズの母方の従兄の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、フランス共和国政府が出した条件を受け入れ、フランス人捕虜との引き換えによるマリー・テレーズの身柄引き渡しに同意した。 9月、ド・トゥルゼル夫人とその娘ポーリーヌと面会、まもなく彼女と釈放されウィーンに送られることを話す。 この時マリー・テレーズは、ルイ・シャルルが使った部屋を案内した。 12月19日、マリー・テレーズが嫌っていた元養育係のド・スシー夫人、牢番のゴマン、憲兵のメシャンと共に深夜、タンプル塔を出発する。 翌1796年1月9日、ウィーンのホーフブルク宮殿に到着する。 しかし、ナポレオン軍が北イタリアで優勢となると、プラハ近郊に夏ごろまで避難する。

ウィーン宮廷では亡命貴族支援とブルボン家再興のため尽力し、フランツ2世はマリー・テレーズを丁重に扱い、手当も与えたが、手紙や面会人を厳しく監視した。 しかし、マリー・テレーズは時にレモンの果汁で手紙を書く=炙り出し文=など、非常に慎重に文通や送金を行っていた。 1797年、文通を続けていたド・シャトレンヌ夫人が出産した男児を命名して欲しいという手紙が届き、自分の名前からシャルルと名づけてはという提案を返信したが、皇帝の監視を逃れるため非常にそっけない内容の返信となった。 この年、ナポレオン・ボナパルトがウィーンに進軍してくる。

 

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森のなかえ

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