その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ マリー・アントワネット、最後の日・・・・・・ ◇◆
マリー・アントワネットは判決に嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。 彼女にはもう失うものが何もないのである。 まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。 すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。 王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。 あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。
マリー・アントワネットは、死刑の判決を受けて独房に戻ったときに、義妹エリザベートに手紙を書いている。 『妹よ、あなたに最後の手紙を書かなければいけません。私は判決を受けたところです。 しかし恥ずべき死刑の判決ではありません=死刑は犯罪者にとってのみ、恥ずべきものなのですから=。あなたの兄上に会いに行くようにとの判決をくだされたのです。 ・・・・・・』、 しかし、この長い告別の手紙を義妹エリザベートが目にすることはなかった。 エリザベートも二ヶ月後にギロチンに処せられるのである。 王妃のこの遺書は、牢獄管理人から数人の手を経て、最後に手にしたのはルイ18世で(ルイ16世の弟)、後に王政復古後の時代になってからに成る。
足掛け3日間続いた裁判が終わり、王妃マリー・アントワネットが獄舎のコンシェルジュリーに戻ったのは10月16日未明だった。 刑場に出発する時間まで、7時間あまりしか残されていなかった。 上記の義妹エリザベートに手紙を書き終えた王妃は、1人跪いて長い間神に祈りを捧げ、衣裳を着たままベッドに横たった。 夜明け頃、部屋係のロザリが王妃の独房に行き、朝食をどうするのか尋ねると、アントワネットは涙を流しながら、自分は何も必要としない、全てが終わったと告げたと言う。 それでも『マダム、かまどにブイヨン・スープとパセリをとっておきました。あなたは持ちこたえる必要があります。 何か持ってこさせてください。』と言う、『ロザリ、私にブイヨン・スープを持ってきて』と、更にたくさんの涙を流して言ったと言う。
このブイヨン・スープがマリー・アントワネット最期の食事となった。 午前8時、それまで身にまとっていた喪服を脱ぎ、白い普段着に着替え、下は黒のスカートをはき、黒いリボンのついた小さめの帽子をかぶる。
午前10時頃、刑場へ行く準備をするために、独房に判事と死刑執行人のサンソン(前節イラスト参照)がやって来た。 サンソンに手を出すように言われたマリー・アントワネットは、うろたえて、『私の手を縛るのですか? ルイ16世の手は縛らなかったのに』と抗議する。 判事に促されてサンソンはアントワネットを後ろ手に縛ります。 そして、断頭台の刃が妨げられないよう、髪の毛も乱暴に短く切られてしまう。
午前11時15分、後ろ手に縛られたままのマリー・アントワネットは、夫ルイ16世が刑場に向うときは立派な馬車で向ったのに対し、彼女が乗せられた馬車は普通の罪人にも使われる荷馬車だった。 死刑執行人サンソンが、彼女の両手を背中に縛りあげた縄の端をにぎっている。 王妃は最後まで強さを失うまいと、精神力のありったけを集中して前方をにらんでいる。
刑場までの道には、アントワネットの救出を警戒し、3万人の憲兵が動員され、多くの見物人も詰め掛けていた。 馬車はゆっくりと進み、セーヌ川を渡り、断頭台のある革命広場(旧ルイ15世広場・現コンコルド広場)に到着した。 その間、王妃マリー・アントワネットは背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据え、付き添いの僧侶とも口をきかずに群集を黙って見ていた。 充血した目に青白い顔の頬はほんのりと赤く、乱暴に切られた白髪が帽子から出ていた。
革命広場(コンコルド広場)に到着したマリー・アントワネット。 テュイルリ庭園の方をチラっと見ると、誰の手も借りずに荷馬車から降りた。 毅然とした態度で処刑台の階段を登り、頭を振って自分で帽子を頭から落とした。 取り乱して見苦しいところを見せることなく、執行人に身をゆだねたのである。 ただ、荷馬車から降りる時に手を貸そうとした、死刑執行人アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」と微笑んだと言われている。
準備をするのに4分かかり、1793年10月16日12時15分。 マリー・アントワネットの首に、刃が落とされた。 執行人が、マリー・アントワネットの血のしたたる首を掲げると、『共和国万歳!自由万歳!』という歓声が、見物人から地響きのように繰り返しあがる。 マリー・アントワネットの最期の言葉は、『さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。』だった。
それを聞いていた、刑の執行人のサンソンは、皮肉なことに王党派であり、後に、見つかると重罪になる、ルイ16世とマリー・アントワネットのためにミサを行っている。 刑が執行されたあと、マドレーヌ墓地に運ばれたアントワネットは、埋葬命令が出ないため、半月近くもの間、膝の間に頭を置かれた状態で、墓地の隅の草むらに放置されたままだった。
この光景を、的確なスケッチにより見事に描き出したのが、革命派中の唯一の芸術家ルイ・ダヴィッドである。ほんの一筆の素描のうちに、彼はあり合せの紙の上に、馬車にゆられて断頭台に赴く王妃の顔を、生き生きと写しとった。 彼はカメレオンのように色を変え、権力に尻っぽをふる卑劣な人間ではあったが、画家としては当代最大の、狂いのない手をもった達人であった。 マリー・アントワネットの最後にして最良の肖像画=書き出しで引用したジャン・コクトーの表現=が、これである。
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