その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ 王妃マリー・アントワネットの裁判・・・・・・ ◇◆
1793年10月12日18時、革命裁判所の法廷で、非公開の予審尋問が開かれた。 とは言うものの、内容は尋問というよりも告発に近いものだった。 裁判長がマリー・アントワネットに問いただしたのは以下の7つの項目。
1.日頃の浪費だけではなく、兄である皇帝レオポルト2世と、フランスの利益にはならない関係を維持し、数百万リーヴルの送金をして、フランス財政を逼迫させた。
2.フランス人民を騙す術を国王に指示し、国王の拒否権行使やヴァレンヌ逃亡をそそのかした。
3. フランス国民の自由を破壊し、王政を復活させようとした。
4. 亡命した貴族と共謀し、国家の安全を脅かす計画を企てた。
5. 1792年8月10日の革命のとき、人民に向けて発砲させた。
6. タンプル塔で、革命の敵となる者たちと連絡をとっていた。
7. カーネーション事件に関与した。
陪審員が1時間の退席をして審議をしている間、アントワネットは自分が国外追放になるものだと信じていた。 しかし、この裁判は革命に生贄奉げる儀式であったがゆえに、裁判の審議過程を問わずに、開廷前に判決は決まっており、審議するふりをして陪審員らは時間を稼いでいるだけだった。
尋問が再開された。 そこで例の狂犬ジャック・ルネ・エベール(前節イラスト参照)により、思いがけない驚くべき汚名が彼女に蒙らされる。 彼女が久しい以前から、九歳の息子に不潔な快楽の方法を教え、息子と忌わしい近親相姦にふけっていたという罪状である。 これには息子や王妹エリザベートも証人として出廷させられ、裁判長の尋問を受けている。 息子が検事の誘導尋問の通り、母親の不利になるような供述をしたことが事実の蓄積として記録され、陪審員に印象を残して行った。
まだやっと九歳になったばかりの子供の、こんな破廉恥な証言に、どれほどの信憑性があるか知れたものではなかろう。 が、マリー・アントワネットは心底から好色な、堕落した女だという確信が、数えきれないほどのパンフレットのおかげで、革命家の魂のなかに深く滲み入っているので、実の母親が八歳六ヶ月になる息子を性的にもてあそぶなどという、容易には信じがたい罪状でさえも、ヘーベルらの徒には何の疑念もなしに受け容れられたのである。
牢獄・コンシェルジェリにおける七十日は、王妃アントワネットの肉体をいよいよ老いこませていた。 日光から遮断されていた彼女の眼は、赤く充血して焼けつくように痛む。 唇と下半身のひどい出血が、見違えるほど彼女を憔悴させた。 しかし法廷に立つ彼女は頭をしゃんと起し、動揺の色もなく、落着いた眼ざしを裁判官のほうに向けていた。
再び、鬼検事フーキエ・ダンヴィルが立ちあがって、起訴状を朗読する。 王妃は、ほとんど聞いていないかのごとくである。 しかし、再度 尋問がはじまると、彼女はしっかりと確信をもって答える。 一度も取り乱したり、自信をなくしたりしない。 ともあれ、筋書通り、陪審員たちは全員一致して、マリー・アントワネットが彼女に帰せられた犯罪に対して有罪であると言明する。
この判決を聞いても、彼女はまるで無感動で、不安も示さなければ怒りも示さない。 裁判長の質問には一言も答えず、ただ否認のしるしに頭をふるばかりである。 あたかもこの人生に一切の希望をなくし、ただ一刻も早く死に赴きたいと願ってでもいるように。
審議が終わり、深い沈黙に閉ざされた法廷に、裁判長エルマンが『マリー・アントワネット。 これから陪審員の答申を言い渡す』 と告げた後、検事フーキエ・ダンヴィルが『被告人は死刑に処せられる』 と叫んだ。 身じろぎせずに判決を聞いたアントワネットは、法廷を後にするとき、『もう何も見えなくて歩くこともできません』と、憲兵の手を借りた。 こうして見せ掛けだけの裁判が幕を閉じた。
しかし、10月14日の出来事 公判裁判の判決を覆すまでには至らず翌日の10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート =後日、彼女もギロチンの犠牲になる。エーベルが王太子を暴力的な脅迫で証言させる= 宛ての遺書を書き残している。 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。 この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。 遺書は革命後に再び発見され、マリー・テレーズ(フランス国王ルイ16世の長女。アングレーム公ルイ・アントワーヌ(フランス王太子)の妻)がこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
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