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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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“難民の父”/ フラム号で北極点へ=09=

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○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

☠ 流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_☠ 

◇◆ フローラ岬へ、そして 奇跡の出会い ◆◇

 ナンセンとヨハンセンはその越冬のための基地として、現在ジャクソン島と呼ばれる島で隠れた入り江にある浜を見つけた。そこには石やコケなど建築材料が豊富にあった。 1896年の春になれば、越冬小屋を出て、スキーとカヤックを使ってさらに南を目指そうと図り、体力の維持に努めた。 ホッキョクグマ、セイウチ、アザラシが豊富に居り、備蓄食料を増やすことができた。 二人は外洋を渡ってスバールバル諸島のスピッツベルゲン島を目指す計画を練り、準備に取りかかった。 カヤックを双胴にする改造、食糧確保の為の銛、カヤック用の帆 等セイウチの皮・骨、流木をかき集めた。

1896年5月19日、数週間に及んだ準備の後、出発の準備ができていた。 越冬した粗末な小屋に「我々は南と西に行こうとしている。陸地に沿ってスピッツベルゲンに渡るために」と記したメモを残して、ナンセンとヨハンセンの二人は2週間以上海岸に沿って南に下った。 二人が持っていたゼムリャフランツァヨシファの荒削りな地図に適合するものは見つからず、ナンセンはそこがゼムリャフランツァヨシファとスピッツベルゲンの間にある地図に無い陸地かを疑っていた。 6月4日、状態が変わり、越冬地を離れてから初めてカヤックを出すことができた。

その1週間後、ナンセンはカヤックを回収するために氷の海に飛び込まざるを得なくなった。カヤックはまだ繋がれていたが、不注意に係留していたために漂流して遠くに行ってしまっていた。 ナンセンは何とかカヤックまで達し、最後の力を振り絞ってその上に上がった。 凍るような状態であったにも拘わらず、その双胴船を漕いで戻る間にウミバトを2羽撃ち落として回収して来ていた。

6月13日、セイウチが襲ってきてカヤックが損傷し、修理のために停止する必要が生じた。 二人はノースブルック島に上陸し、濡れた体を乾かした。 修理に時間を要した。 そして、6月17日、再度出発する準備をしているときに、ナンセンは氷原の彼方から聞き覚えのある音がするのに気づいた。 犬がほえる声だ。 彼は急いでスキーを履くと、独りで犬が吠えているのを聞いたと思い犬の後を追いかけた。 彼は捜索に行った。

ナンセンはこう書いている。 「突然、人間の叫び声が聞こえたように思った。胸が高鳴り、とても興奮してしまった。 そして力いっぱい叫んだ」。 遠くには、まぎれもなく人間の姿がある。ナンセンはその人影に近づいていった。 それから人の声を聞き、その数分後には人間と出逢った。 それは、ナンセンに拒否された後で独自に遠征隊を組織してゼムリャフランツァヨシファに来て、諸島では最南端のノルトブルク島のフローラ岬に本部を設営していたフレデリック・ジャクソンだった。

  「ナンセンさん、あなたなんですね?」

脂にまみれ、すすで真っ黒になった、目の前の人物を食い入るように見つめて、その男は英語でそう話しかけた。


 「はい、ナンセンです。 なんて嬉しいことでしょう。お会いできて本当によかった」

 ナンセンを救出したのは、フレデリック・ジョージ・ジャクソンという英国の探検家だった。 ジャクソンは4年前にロンドンでナンセンに会っていた。 ジャクソン自身も北極点到達を目指しウインドウォード号でフランツ・ヨシフ諸島に向けて航海していたのだ。 厳密に言えば、ジャクソンはナンセンを探していたわけではないが、ナンセンが近くにいるかもしれないことは承知していた。

  ジャクソン自身の証言では、この突然の会合にたいする最初の反応は、それが難破した船の水夫であり、恐らくはその夏に来る予定だった遠征隊の補給船・ウインドウォードの者だと想定した。 ジャクソンは近づきながら「背の高い男、フェルトのソフト帽を被り、緩やかに仕立てだぶだぶの服を着て、長く毛むくじゃらの髪と髭があり、すべて黒のグリースの悪臭がした」と見ていた。 一瞬不器用な躊躇いの後で、ジャクソンはその訪問者を認識した。 「ナンセンさんですね。」と聞き、「そうだ私がナンセンだ」という答えが返って来たと言う。

 それでも二人がこの最果ての地で出会えたのは奇跡に近かった。 ヨハンセンが救出され、二人はフローラ岬の基地に連れていかれて、写真に納まった。 ジャクソンはナンセンとヨハンセンを自分たちの小屋に迎えた。 ある写真はジャクソンとナンセンの会合を演出する写真だった。 その後に風呂に入って髪を散髪した。 二人は逆境にもめげず、健康に見えた。 ナンセンは遠征の初めより体重が21ポンド (9.5 kg)、ヨハンセンは13ポンド (5.9 kg) 増えていた。 ナンセンたちはそこで、食料調達のために英国へ帰国していたウインドウォード号の到着を待ち、ノルウェーに戻ることになった。

  その後の6週間、ナンセンはウインドウォードの到着を待つこと以外することが無く、フローラ岬でもう一冬過ごすことになるのを心配し、ヨハンセンと共にスピッツベルゲンまで行かなかったことを後悔することもあった。

  ヨハンセンはその日記に、ナンセンがフラム号指揮時の威圧的な性格から、従順で礼儀正しい者に変わって来たと記し、断固としてこのような旅を二度としないと言っていると記した。 7月26日、ウインドウォーが漸く到着した。 ナンセンはその救出者フレデリック・ジョージ・ジャクソンの栄誉のために、越冬した島を「フレデリック・ジャクソン島」と名付けた。

  1896年8月7日、ナンセンとヨハンセンが乗船して南に向かい、8月13日にはヴァードーに到着した。 一束の電報が発信され、ナンセンの無事帰還を世界に知らせた。 また、ヴァードーでは、ナンセンとヨハンセンが、北極漂流理論の生みの親であり、たまたまその町に居たモーン教授に歓迎された。 二人は毎週来る郵便配達用蒸気船を待って南に向かい、8月18日にはハンメルフェストに着いて、熱狂的な歓迎を受けた。

  盛大な歓迎を受けながら、フラム号に関する知らせが無いことでナンセンの心にしこりがあった。 しかし、フラム号は8月20日に、スヴェルドルップがハンメルフェストより南にあるシェルベイという小さな港に船を寄せ、その時はトロムソに向かっているという知らせを受けた。(※ナンセンはフラム号を離れる前に、遠征の残りの指導者をオットー・スヴェルドルップと指名し、大西洋までの漂流を状況の許す限り続けるよう命令を出していた)

 その1週間後(8月26日)には、オットー・スヴェルドルップ船長が率いていたフラム号がトロムセーの港に戻ったニュースが届き、ナンセンとヨハンセンの快挙に花を添える結果となった。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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