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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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“難民の父”/ フラム号で北極点へ=08=

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○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

☠ 流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_☠ 

◇◆ ゼムリャフランツァヨシファへの後退 ◆◇

  旅の方向を南と西に変えると、おそらくゼムリャフランツァヨシファへのコースが氷の障壁線と広い意味で平行にあり、垂直ではなかったので、旅の条件としてはよりましになった。 進行は迅速だった。 1895年の4月13日、ナンセンは「これが続けば帰りは思っていたよりも早くなる」と記録していた。 しかし、日記の同じ日の記述には、二人とも腕時計が止まってしまったという災難をしるしてもいた。

  ナンセンの日記の書き方は温和であるが、この出来事は大災難になる可能性があった。 正しい時刻が分からなければ、自分たちの位置を計算できず、ゼムリャフランツァヨシファへの正しいコースを維持できなくなる可能性があった。 二人はナンセンの東経86度にあるという推測に基づいて時計を動かしたが、もはや正確には位置を確定できなかった。 ナンセンの仮定よりも西にあった場合、ゼムリャフランツァヨシファを見過ごし、開けた大西洋に行ってしまうところだった。

  漂流の方向は北向きとなり、2人の移動には障害となった。 最北端から11日移動してきた4月18日までに、南に40海里((74 km) しか進んでいなかった。 この頃二人は広く開けた海水域が近くにある起伏の多い地形を進んでいた。 4月20日頃、流氷の上に大きな流木が乗っているのを見た。 フラム号で氷の中に入って以来、外界を示す最初の兆候だった。 ヨハンセンはその流木に自分とナンセンの頭文字を刻み、経度と日付も記した。 その1日か2日後、ホッキョクギツネの足跡を認め、フラム号を離れて以来、犬以外では初めての生物の痕跡となった。 他にも足跡が現れ、ナンセンは陸地が近いと思い始めた。

  5月9日に計算された位置は北緯84度3分であり、ナンセンはもっと南に来ていると期待していただけに落胆した。 しかし、5月の日が進むとクマの足跡を目にするようになり、5月末までにアザラシ、カモメ、クジラが豊富にいるようになった。 5月31日、ナンセンの計算では北緯82度21分に来ており、その経度の推計が正しければ、フリゲリ岬まで50海里((93 km) に来ているはずだった。

  気候が温かくなって氷が割れ始め、移動が難しくなっていった。 4月24日以降、犬を定期的に1匹ずつ殺して他の犬の餌としており、6月初めの時点では当初の28匹のうち7匹が残っているだけだった。 6月21日、二人は余分な機材や物資を投げ捨て、身軽になって動き、このときは豊富になって来ていたアザラシや鳥で食いつないで行こうと考えた。このやり方で1日動いた後、浮氷の上、耐水性のあるカヤックの上で休み、次の行程に備えて体力を養うことに決めた。その後の丸一か月は浮氷の上でキャンプしたままだった。

  1895年7月23日、キャンプを離れた翌日、ナンセンは疑いも無く陸の姿を初めて目にした。 その日記には「遂に驚異の時が来た。陸地、陸地、我々はそれを信じることをほとんど諦めかけていた。」と記した。 それに続く日々で、二人はちっとも近づかないように見えた陸に向かうべく苦闘したが、7月末までに遠く波打ち際の音を聞けるまでに近づいていた。 8月4日、ホッキョクグマの攻撃を凌いだ。 その2日後氷の端部に到達し、陸地との間には海が広がるだけになった。 8月6日、残っていたサモエド犬の最後の2匹を殺した。 カイファというオスとサッゲンというメスだった。 カヤックに橇とスキー板を渡して双胴船に転換し、帆を上げた。

  ナンセンは最初の陸地を「フビテンラント」(白い島)と呼んだ。 氷脚の上でキャンプした後、斜面を登って周りを見回した。 多島海の中に居ることは明らかだったが、不完全なゼムリャフランツァヨシファの地図に結び付けられるものを見分けられなかった。 二人は正確にそれと分かる地形を見つけることを期待して南に下り続けることができただけだった。

  結局、1895年の夏、ナンセンとヨハンセンは懸命にフランツ・ヨシフ諸島を探したが一向に見つからなかった。 「3カ月も氷原をさまよい続けたが、依然として陸地は見えてこない」と、ナンセンは絶望感を抱くようになっていた。 ある時はスキーで、ある時は徒歩で、ある時はカヤックで、二人は果てしない迷路のような海氷の上を苦心しながら移動した。

 そして8月6日、二人はついにフランツ・ヨシフ諸島に到達した。 陸上に立つのは2年以上ぶりだった。 ここからナンセンたちの運命は好転し始める。ホッキョクグマやセイウチを狩り、新鮮な肉をたらふく食べて体力を取り戻した。 二人はその後、氷に覆われた島々を南下した。 そして、上陸して10日が経つ頃には、迫りくる冬を、故郷から遠く離れた北極圏で過ごさざるを得ないと覚悟した。

  8月16日、ナンセンはフェルダー岬の根元と暫定的に識別できる場所をペイアーによるゼムリャフランツァヨシファの西岸の地図に書き入れた。 ナンセンの次の目標はこの島の南端、アイラハーバーと呼ばれる場所に、それ以前の遠征隊が残したとされる小屋と物資にたどり着くことだった。 しかし、逆風と浮氷のためにカヤックでの移動は危険となり、8月28日、次の極地の冬が近づいて来ていたので、ナンセンは現在の位置に滞在して、翌春を待つということに決めた。

  ナンセンとヨハンセンはその越冬のための基地として、現在ジャクソン島と呼ばれる島で隠れた入り江にある浜を見つけた。そこには石やコケなど建築材料が豊富にあった。 深さ3フィート(90 cm) の穴を掘り、その周りに岩や石を使って壁を築き、そのうえにセイウチの毛皮を広げて屋根にした。 雪とセイウチの骨を使って煙突を付けた。 この隠れ家を「ザ・ホール」と名付け、9月28日には準備が整い、その後の8か月間の家になった。 その状況は快適ではなかったが、命に対する脅威は無かった。 ホッキョクグマ、セイウチ、アザラシが豊富に居り、備蓄食料を増やすことができた。 大きな敵は退屈さだった。 時間を過ごすために、脂肪のランプの明かりでナンセンの帆走年鑑や航海表を読み、それを何度も読み返した。

  クリスマスのとき、二人は橇で運んできた食料からチョコレートとパンで祝った。大晦日にはヨハンセンが、ナンセンが遂に親愛の呼びかけをしたと記録した。それまで二人は旅の間を通じて形式ばった「ミスター・ヨハンセン」とか「ナンセン教授」とか呼んでいた。新年、二人はボロボロになった寝袋からスモックとズボンというシンプルな外出着を着て、気候が温かくなったら旅を再開する準備をした。 1896年5月19日、数週間に及んだ準備の後、出発の準備ができていた。ナンセンは小屋を訪れる人があった場合のためにメモを残した。 「我々は南と西に行こうとしている。陸地に沿ってスピッツベルゲンに渡るために」と記されていた。

動画資料 : クリック➡

https://youtu.be/Adtuu9PrWzk

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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