その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に
○◎ “ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。 でも靴が汚れなくてよかった” ◎○
◇◆ ファルセンの支援でパリ脱失・・・・ ◆◇
マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、スウェーデンの貴族フェルセン伯である。 いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、互いに尊敬以上のものがあったかどうか。 フェルセン伯の存在が一時途絶え、久しく宮廷や世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。 パリ市内が騒乱の巷と化し、王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユやチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、後述のヴァレンスへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男である。
王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。 しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男爵にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。 ことが起こればわが身の保身に彼らは沈黙した。 彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。 これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いていく。
フェルセンは、ノールウェーの英守・グスタフ3世によって、革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに再び送り込まれていた。 過日、1774年1月の仮面部総会で出会って以来、フェルセンはアントワネット王妃に特別な感情を抱いていた。 女王に仕える騎士そのもの立ち振る舞いであろうか。 国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。 彼は各地の王統派と連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動を起こしたのである。
1791年2月13日、フェルセン伯が厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、最後にチュルリー宮に王妃を訪ねてきたとき、彼はその一夜を王妃の寝室で過ごしたという。 おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。 二人が本当の、精神的肉体的にも敢然な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。 不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらけたのはこの逢瀬からである。 喜劇が悲劇に変ったのである。 彼女はいわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚したようであった。 フェルセンとの一夜が彼女をして変貌させたようである。
「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。 今まで人生と戯れていた彼女が、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。 チュルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。 わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、はては怪物オノーレ・ミラボー伯(前節イラスト参照)を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。
ポリニャック公爵夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。 国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世(神聖ローマ皇帝/前節イラスト参照)に助けを求めようと計画する。
計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。 彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。 当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。 マリー・アントワネットは、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていたようである。 逃走の資金は銀行家から借金することになった。
しかし、王妃マリー・アントワネットの主導のもとに計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。 まず計画の中心人物が、王妃の愛人とも噂されたあのフェルセンとなった。 彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無であった。 国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。 フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったからである。 しかしフェルセンは王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、今世紀初頭当時の日本円に換算して総額120億円以上を出資したというほど、献身的であった。
脱出の実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日に実行に移された。 国王一家はテュイルリー宮殿を後にした。 国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。 アントワネットも家庭教師に化けた。 フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な、 そして足の遅い、 ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。 また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。 このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。
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