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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =030=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆ 現地から届いた手紙 =5/6= ◇◆

② グレイスフィヨルド到着後、またカナダへ送金をお願いしたい。 カナック滞在中、グレイスフィヨルドにいった人達に逢い、現地の事情をたずねてから、どれだけ必要か連絡します。 以上お金の問題はいいづらい事ですが、旅する私にお金がなくてはどうすることもできません。

兎に角、第一ステップであったグリーンランドが無事こなすことができたので、是非これからカナダ、アラスカへの犬橇一人旅を決行したいというのが今の私の心境です。充分なる写真もレポートも、日記も、フィルムもとらず、無理をいって申し訳ございませんが、何分、1人の身、宜しくお察し下さい。》

 私はこの手紙を受けとると、ただちに毎日新聞、NETの担当者と集まって、大あわてで送金の手はずを整えた。この一万二千キロの旅では、植村への送金がとどこおったりして、彼を不安がらせてしまったことが何度かあった。

 一度に費用の全額を携行するのは、紛失とかいろんな理由から得策ではないということで、何度かに分けて彼が受け取ることができる場所に送金することになっていたのだったが、その手はずが整わず、遅れることがあったのである。

 それはともかくとして、この手紙、せっかく目的地に達しているのに、どことなく元気がない。橇と犬たちを海水に落とすという事故があったせいか、チューレ地域に到着した植村はなぜか濃い憂うつに襲われた、と本では語られている。その気分が、手紙にもどことなく反映していたのだろうか。

 もう一通の手紙。76年2月2日の日付。カナダの北極海沿岸の町、パウラトックから発信されている。

《Cambridge Bayを出て一カ月半、1300~1500km走行して、1月27日北極海沿岸にあるパウラトックに到着しました。パウラトック到着は、コッパーマインを出て20日目になります。一週間休養後、2月3日出発、2月中旬カナダ最後の町タクトヤクトック到着予定、アラスカ入りは3月上旬頃を予定。

 後半の旅は意外と厳しくなかなか思うように犬橇走らず、気温はマイナス40℃を越し、乱氷になやまされ、その上、C.B.で手に入れた新しい犬は橇を曳いたことなく、グリーンランド犬とケンカ、凍死したり、疲労死、闘争死で、500kmと走らない内に犬は9頭に減ってしまい、旅を続けることできず、今年始め、ルートから離れ、コッパーマインに入りました。

ここで犬を交換したり補強して、16頭という今までの最大のチームで、1月7日コッパーマインを出発しました。ところが、これまたトレーニングのないコッパーマイン犬は、犬の数ばかりで、橇を曳くことより、犬同士のトラブルばかり。

 その上、ツンドラの横断で予定したカリブーの狩りは2頭をとっただけで、橇の犬の食料は食べつくし、パウラトックに入れず、犬は元気なく、また、わが体も調子悪く、最寄りのアメリカのレーダー基地に逃げ込み、基地の協力を得てカナダ警察の援助を受け、犬の食糧を受け、1月27日、コッパーマインを出て20日目、かろうじてパウラトックにたどりついたところでした。

  一日の行動は、朝9時から午后6時まで、日が短かく、その上、気温はマイナス40℃~50℃にも下る強力な寒さにより、一日一食(夕方)しかとれない中、暗やみの行動もできず、その上、橇は砂の上を走らせるように滑らず、1日最高50km、ある日は乱氷の中に1日10km進むのがやっとのことでした。

  顔の凍傷はC.B.を出て4度目、やけどのようにヒフはただれるが4~5日もすると、新しく表皮ができ、またそこが新しくやられると、いつも同じところが凍傷になること、くりかえしています。マイナス50℃という寒さにはもう防寒衣をつけても、体全体が寒く、そして痛み、橇にじっと乗ってムチを振れない厳しさです。

 =補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ハンス・シェル

ヒマラヤ鉄の時代に8000m峰の新ルートや7000m峰を多数攻略したオーストリアの精強な登山家。 ナンガ・パルバットのルパール壁に刻んだ新ルートは「シェル・ルート」として名が残る。 モムヒル・サール 初登頂 / アケール・キオー 初登頂 / ディラン 初登頂 / マルビティン 初登頂 / ウルドゥク・カンリⅠ 初登頂 、等々の山歴を誇る。

※ 「ナンガ・パルバット」はウルドゥー語で「裸の山」の意味で、その周囲に高い山がないことに由来する。 “死の山”として登山家に恐れられた。 南側のルパール壁は標高差4,800 mと世界最大の標高差を誇り、また屈指の登攀難壁である(初登攀はラインホルト・メスナーギュンター・メスナー)。 西側のディアミール壁も困難な壁である。 南西稜は「マゼノリッジ」と呼ばれ、13 kmの間に7,000 m峰を6つ、6,000 m峰を2つ含むヒマラヤでも最大級の稜線となっている。

ヘルマン・ブールが1953年7月3日に初登頂するまでにドイツ隊が何度も挑み、多くの遭難者を出したことから「人喰い山」と恐れられた。 2013年にブロード・ピークの冬期登頂が達成されたため、冬季登頂が成功していない数少ない8000メートル峰だったが、2016年の2月26日にシモーネ・モロが冬季登頂に成功した。

  1895年 - イギリスのアルバート・フレデリック・ママリーが試登しディアミール壁から標高6,100 m地点まで到達するが、悪天候により下山。 その後の偵察で消息を絶ち行方不明になった。ナンガ・パルバット最初の犠牲者である。

  1934年 - ウィリー・メルクール率いるドイツ隊が北東稜から頂上を狙うが、撤退中に悪天候に襲われメルクールを含む9人が死亡。

  1937年 - 同ルートからカール・ウィーン率いるドイツ隊が挑むが、キャンプ地を雪崩が直撃し、ウィーンを含む16名の死者を出す。

  1939年 - インドに滞在していたドイツ隊が、第二次世界大戦の勃発でイギリス軍の捕虜となる。後日、ハインリヒ・ハラーを含む一部の隊員が収容所から脱走し、チベットに逃げ込んで終戦まで同地で過ごす。

  1953年 - ヘルマン・ブールが無酸素で初登頂。第5キャンプ(6850m)からは単独登攀。山頂にピッケルを残した。ルートは北東稜。

  1962年 - トニー・キンスホーファーら3人がディアミール壁を初登攀、第二登を果たす。後にこのルートは頂上へ至る標準的なルートとなり、キンスホーファールートと呼ばれる。

  1970年 - ラインホルト・メスナーギュンター・メスナーの兄弟がルパール壁初登攀に成功。下山中、ギュンターが雪崩に巻き込まれて死亡。

  1976年 - ハンス・シェル隊長率いるオーストリア隊の4人がルパール壁の新ルートで登頂に成功。以降シェル・ルートと呼ばれる。

  1978年 - ラインホルト・メスナーが単独・アルパインスタイルで初登頂。ディアミール壁の新ルート。

  1983年7月31日- 富山県山岳連盟登山隊の谷口守、中西紀夫が日本人初登頂。

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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