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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =022=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 先住民に学ぶ =3/6= ◇◆

 4年にわたる世界放浪の旅の、最後のクライマックスといえる1968年のアマゾン河6000キロの筏下りでは、小舟ではダメでも筏なら下れる、という住民のもつ交通手段への積極的な評価があった。

 そしてペルー領内では住民たちと同じようにバナナを煮たり揚げたりして食べ、ブラジルに入ってからは主食がマンジョーカ(たろいも)の粉に替った。あとはピラニアとかナマズの類を釣りあげて煮たり焼いたりした。食べ物も徹底して先住民をまねたものにし、平然と生きのびるのである。

 ネパールのシェルパ族についても、植村は並々ならぬ敬愛感をいだいていた。

 植村が日本人として初めてエベレストの頂上に立ったのは、1970年5月21日である(松浦輝夫氏と共に)。その前年、偵察隊員として南壁ルートを探った後、そのままシェルパ族のクムジュン村で越冬した。越冬の目的は、翌年の登山本番のための物資調達だったが、植村本人はその仕事を進めるかたわら、高度順化と高所での体力トレーニングに励んだ。

 日本山岳会のエベレスト登山隊の登はん隊長は、明大山岳部の先輩・大塚博美だった。大塚隊長は植村をネパールで越冬させ、高度順化を果たすようにさせた発案者だったと思われる。大塚氏は、この後輩が途方もない力を内に秘めているのを知っていた。植村を登山隊の切り札と考え、越冬隊員という考えてみれば不思議な役割を担わせた。植村は登頂によって大塚氏の期待にこたえたわけである。

 越冬したクムジュン村は高度3800メートル、富士山より少し高いところにあった。寄宿したのは、シェルパのペンバ・テンジンの家である。

 ペンバ・テンジンは、1965年、明大のゴジュンバ・カン登山隊で、植村と組んで登頂に成功したシェルパである。植村は事前の連絡なしでペンバの家を訪れたのだが、ペンバはアメリカ人のガイドとして旅行中。主人の不在にもかかわらず、おかみさんは親切に家に迎え入れてくれた。

 植村は言葉がほとんど通じないところを身ぶり手ぶりで意思を伝え、ペンバの家に滞在して高所トレーニングに励んだ。

 早朝、起床してすぐにランニング。7キロの行程である。峠まで登り、エベレストの姿を見て帰ってくる。初めのうちは途中で足を止めるほど息が切れたが、しだいに高度になれて走れるようになった。

 食べ物は家族と一緒。たとえば、ジャガイモと麦こがしのツァンパを混ぜ、それをバターで焼いた、ロティというもの。バター(ギー)はヤクの乳からつくられるが、ロティにはギーと辛いトウガラシをつけて食べる。

 植村は、ペンバの留守宅での寄宿生活を、『エベレストを越えて』(文藝春秋、1982年刊、現在は文春文庫)でくわしく語っているが、そこには次のような文章もある。

《……現地の食べ物を家族と一緒に食べる方が、食事も楽しかった。私はどこへ行ってもその土地のものがおいしく食べられるので、ありがたい。》(「ヒマラヤ越冬」)。

=補講・資料=

エスキモーの宗教

現在のエスキモーは、ほぼ全員がクリスチャンである。伝統的エスキモーは、シャーマニズムを信仰していたが、1920年から1930年代に改宗が進んだ。改宗が進んだ原因として、キリスト教宣教師がシャーマンによる医術のでたらめを暴露し、西洋医学で病人を治療することにより、民衆の信望を集めたとする説と、当時としては特段の理由があったわけではなく、キリスト教が単なるファッションとして受け入れられたとする説とが有力である。ただし、現在でもシャーマニズムを信仰している者も存在している。また、エスキモー・クリスチャンは一枚岩ではなく、宗派により対立することが知られている。

姥捨ての習慣

また、かつては入手が不安定で極めて限られた食料による極限的生活を送っていたことから、生産労働に従事できない老人や病人は遺棄することが一般に行われていた、エスキモーは厳しい気候の寒冷地に居住しており、過去においては常に食糧不足の状態にあった。そのため少ない食料を生産再生人口にのみ振り分け、高齢者を棄てる習慣があった。ただしこれは強制されるものではなく高齢者はある年齢になると自らの意思で家族を離れて死への旅路に就いた。親孝行を最大の道徳とみなす東洋的な儒教文化から見れば最大限の悪行のように受け止められる習慣も、その厳しい生活環境ではギリギリの選択であった。現在は人権上及び道義上の問題から姥捨ての習慣は禁じられており、行われていない。

客へのもてなしとしての妻の提供

エスキモーは客人へのもてなしとして自分の妻を提供する習慣があった。提供された男が次に客をもてなす側になったときには、互酬性の原則によって、自分の妻を相手方に提供することを求められた。この習慣は外国人には非常に奇異なものに映り、しばしば小説の題材に取り上げられた。現在、彼らの多くはキリスト教徒であり、福音の教えに反するので、このような習慣はなくなった。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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