○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ ・・・・・・単独行・・・・・・ =4/5= ◇◆
植村自身、記録を目ざしたり、冒険史上に名を残したりしたいという思いがあることを認めている。 しかし、右のような言葉に耳を傾けてみると、「誰の制約も受けずに」ひとりでやりたいことをやりたいという思いが、植村の全行動の原点としてあることを、改めて確認できる。
ひとりで何事かをなすことが、何よりも楽しいのだ。 そこに何にもまさる充実感を感じてしまうのだ。 それが植村直己という男のありかたなのだろう。
いうまでもなく、植村はいつもニコニコして、礼儀正しく、人当りがよかった。 十分に協調的、さらにいえば社交性さえある男だった。 チーム編成の登山を拒否しているのではない。 彼は4年間の世界放浪の時代に、特に呼ばれてヨーロッパから明大山岳部ゴジュンバ・カン遠征に参加しているほどなのだ。
さらに世界放浪から帰国した直後から、日本山岳会エベレスト遠征隊の一員にもなっている。 そのような経緯を見ても、登山や冒険において何が何でも単独でなければならない、と考えていたわけではないことが明白だ。 協力して何かを成しとげることができる男が、やはりひとりでやりたい、と思うのである。 そして、ひとりでやりたい、と思ったとき、南極や北極の氷の世界、水平の世界が、彼の目の前に現われた、といえないだろうか。
北極圏の氷の世界を、植村直己はどんなふうにたったひとりで進んでいくのか。 その姿にもう少し接近して見てみよう。それには、わりあい忠実に日付を追って記録されている『北極圏一万二千キロ』によるのがいい。
エスキモーの集落から集落へと、渡るようにして犬橇の単独旅行をつづけるのだが、次の集落まで100キロ前後の距離がある場合が多い。 いちばん長い無人地帯の行程は、グリーンランドの最北端シオラパルクから、スミス海峡を渡ってカナダの最初の集落であるグレイスフィヨルドまで、1200キロ。海氷であったり島の沿岸部であったりするが、果てしない氷の上を行くのである。
1200キロ分の、犬と植村自身の食料をすべて橇にのせることはできない。 前もってシオラパルクの人びとに頼んでアノーイトー岬あたりにセイウチの肉をデポしてもらっている。 しかし、その後は、食料を節約し、機会あればアザラシやカリブーを撃って犬たちの食料にしていかなければならない。
それでも、橇の上の荷物は初めのうちは300キロ(多いときは500キロ)ほどになる。
橇の全長は3.2メートル、幅0.9メートル。2本のランナーの上に木板を数枚わたして床になっている。 最後部左右に2枚の長柄を立て、上部で1本の棒をわたして結んである。 もっとも、この橇は不具合があって、グリーンランド最北部のシオラパルクで新しいのにとり替えた。 その橇は全長4メートル。
次はその橇にのせる荷物。 いちばん後ろに木箱。 木箱には石油コンロ、植村自身用の紅茶、コーヒー、ビスケットなど。 木箱の横に10リットル入り石油タンク2本を置く。 木箱の上に、靴と手袋の予備を入れたナイロン・ザック、袋に入れたシュラフを置く。 それらの前に大きなトランク。なかにはカメラ、着替えなど。トランクの前に、犬の食料であるアザラシを、縦に、頭と尾をたがいちがいにして並べる。 アザラシの上に、テントの下敷きにしているビニールシートをかける。トランクの上からアザラシの上にかけてトナカイの敷き皮をかけ、その上にポールのついたままのテントと、ライフル銃を置く。トウ(鉄の棒)と釣りの仕掛けを巻きつけた棒を縦にして置き、これらすべてを後ろのほうから紐でバンドがけする。使う紐は3本。
最小限の世帯道具を持ち運んでいるようなものだから、橇は重くなる。 これを12、3頭の犬がひいて、順調なときで時速10キロぐらいの速度で走る。乱氷帯に入ったり、雪が深かったりすれば、たちまち犬の走りはにぶる。 行動時間は平均すると1日8、9時間か。また、10時間以上に及ぶこともめずらしくない。
朝テントをたたみ、荷物をすべて積み直すのに1時間以上かかる。 出発し、地図をにらみながら、1日の目標距離をかせぐ。氷の状態、気象状況によって進行が少しずつ遅れていくことが多い。
夕方、適当な場所を見つけて、氷上にテントを張る。しかしテントを張ったからといって、すぐになかに入って休めるわけではない。 犬の曳綱をほどいて橇からはずし、氷に穴をあけて綱を結びつける。アザラシなどの凍肉を割って、犬に与える。 橇から敷き皮、シュラフ、石油コンロなどをおろしてテントに運びこむ。 さらに残りの荷を全部おろして橇を裏返しにし、ランナーの鉄板にヤスリをかける。 これだけやるのにざっと1時間半。
=補講・資料=
北西航路(北大西洋)=3/4=
19世紀前半、ベーリング海峡の北のカナダ沖北極海(実際の北西航路の一部)を、ジョン・ロス、ウィリアム・エドワード・パリー、ジェイムズ・クラーク・ロスなどの探検隊が航行した。 またジョン・フランクリン、ジョージ・バック、ピーター・ウォレン・ディーズ、トーマス・シンプソンらは陸路で北極海沿岸を探検し、次第にカナダの北極海沿岸の姿が明らかになった。1825年にはフレデリック・ウィリアム・ビーチーがアラスカの北極海岸を探検し、バロー岬を発見した。 しかし北西航路の横断航海をしようという試みは全て失敗し多くの犠牲を出した。 後述のジョン・フランクリン探検隊はそのもっとも有名かつ凄惨な例である。
実際の北西航路を発見した人物としてイギリスの探検家ロバート・マクルアーの名が挙げられる。 1851年、フランクリン隊の捜索にやってきたマクルアーらはバンクス島からマクルアー海峡を隔ててメルヴィル島を視認した。 マクルアー海峡はカナダ北極諸島の西の出口であり、北西航路の一部をなす水路であったが、当時の船ではこの海峡を通ることはできず、マクルアーらの船も氷に閉じ込められる結果となった。 彼らは結局、東側から同じ海峡に入って出られなくなった別のイギリス海軍の探検隊に助けられ、そりと徒歩で北西航路を横断した。 北極諸島の東の入り口に当たるランカスター海峡(デヴォン島とバフィン島の間)と、西南の出口にあたるドルフィンアンドユニオン海峡(ビクトリア島とカナダ本土の間)を結ぶ水路は、ハドソン湾会社の社員で犬ぞりを使って極北の陸地を探検したジョン・レイによって1854年に発見された。
1845年、十分な装備を整えた二隻の軍艦が、ジョン・フランクリン卿に率いられてイギリスからカナダの北極海への探検に出港した。 この航海は北西航路の最後に残った不明箇所の海図を作ることが目的だった。 フランクリン自身やほかの探検家たちによる調査で、カナダ北極海沿岸の未踏の海岸線はあと500kmを残すほどになっており、暖房や食料も豊富に持った探検隊は成功の自信に満ちていた。 しかし3年経っても探検隊は戻らず、数多くの救助隊や捜索隊が艦隊を組んで彼らの行方を捜して北極に向かったが、さらに多くの遭難者を出す結果になった。 しかしこれらの捜索隊が北極諸島にある未知の島や海峡を多く発見し、北西航路の残りの海図を作成している。 129人の探検隊が北西航路のどこに消えたのかという謎は大衆の想像力を刺激し、夫の遭難を信じず自費で捜索隊を組織するフランクリン夫人はイギリス中の注目を集めた。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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