○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ ・・・・・・単独行・・・・・・ =3/5= ◇◆
植村はモンブランの頂上から下っているボッソン氷河を歩きはじめる。 もう少しで氷河を渡りきるというところで、新雪に隠されていたクレバスに転落した。 背中のザックと、アイゼンの爪が氷壁に引っかかって、植村は無事クレバスから這い上ることができた。 助かったあとで、改めてゾーッと寒気を感じ、膝がガタガタとふるえた、と彼は書いている。
「氷河の恐ろしさも知らずにした単独登山を、私は反省した」とも。 しかし、彼は反省して単独行を改めたわけではなかった。 「冒険とは、何よりもまず生きて帰ること」を自分のスローガンのように唱えながら、ひとりで行動しつづけた。やりたいことをやる、登りたい山に登る。 そのためには単独でやるより方法はない。 彼はごく単純にそう考えていたのではなかったか。
ひとりで事を行なう流儀は、おそらく世界放浪の旅に出る以前に植村が会得したものだったように思われる。 高校時代に登山体験があったわけでもなく、またはっきりした目的があったわけでもなく、つい出来心で明大山岳部に入ってしまった。 入部すると同時に先輩たちにしごかれつづけ、内心文字通り悲鳴をあげた。 これを克服するにはどうすればよいか。 彼は毎朝ひとりでトレーニングをして体力づくりに励んだ。 負けるものか、とひとりで目標をきめ、それを正直に実行する。 そういうやり方が身についていった。 さらに最上級生になったとき、単独山行を試み、成功して自信を得た。
そういう植村が、無鉄砲を十分承知の上で、「ヨーロッパ・アルプスの氷河を見たいばっかりに」日本を飛び出していったのである。
単独行の好きな登山家や冒険家がたしかにいる。 彼らがすべて共通する性向とか心情をもっているわけではない。しかし、共通するものがないという発見は、意味のないことではないかもしれない。
加藤文太郎(1905年~36年)は、植村と同じ但馬の出身。 しかし加藤は植村と違って日本海の海辺に生まれ育った。昭和の初めに、実力ナンバー・ワンと目された単独登山家である。 神戸の三菱内燃製作所に勤めながら、日本アルプスの新ルートを単独で開発していった。 1936(昭和11)年1月、槍ヶ岳で遭難死。 ただし、この遭難のときには同行者がいた。
加藤には『単独行』と題する遺著がある。 そのなかの「単独行について」と題するエッセイで、含み多い発言をしている。「彼(筆者注・単独行者)の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか」。 加藤は単独行を強く肯定しているが、単独行には、一種の臆病さと利己心が絡みあいつつ関係していると考えているようだ。
外国の単独行者ですぐ思い浮かぶのは、イタリアの登山家にして冒険家ラインホルト・メスナー(1944年生まれ)である。 8000メートル峰14座の登頂記録をもつ、超人的な登山家。 80年にはエベレスト山無酸素単独登頂に成功。また90年には、徒歩で南極横断をやってのけた。
メスナーは自己宣伝を辞さない、強烈な個性の持ち主。 どんなかたちの登山もやっているが、記録が狙えれば、積極的に単独行を行なう。好き嫌いを別にすれば、きわめてわかりやすい「超人」的な天才であろう。 私は、メスナーのムキ出しの発言、そこにある一種の卒直さに興味を抱いている。 登山や冒険行にある、名を成したいという「向上心」は、それじたい悪ではないし、認められるべきことだろう。
メスナーはインタビューなどで知るかぎり、植村とはずいぶん気質も考えも違っていると思われるが、植村の冒険については讃辞を惜しまなかった。
私は植村をメスナーと比較しつつ論じるつもりはまったくない。 だいいち、メスナーについて、著書を通して以外に知るところはそんなに多くはない。 だからメスナーにくらべるわけではないのだが、植村は登山や冒険の「記録」について、ずっと屈折した考えをもっていた。 それを自ら語ったことがある。
《たしかに自分にはそういう記録を求めているところがあります。 しかし、さらにそれよりも、まず自分にやりがいのあるものを求めている。終わってから、ああやりがいがあったと自分で思うために、まずやっていると思うんです。》(『植村直己と山で一泊』)
がむしゃらにアルバイトをして金を稼ぎ、ヨーロッパに行く。アフリカの山ってどんなんだろうと、ケニヤ山に登りに行く。がむしゃらに登って、登れたときの感じは特別なものがある、と語り、さらに言葉を継ぐ。
《それは小さなことで、他人には全然わからないかもしれないけれど、本人からしてみたら、それをやるために自分の全力を注ぎ込んで、誰の制約も受けずに心から出たものだけでやってることです。それをやり終えたときの、やったという感激は、強く心に残っています。》(同前)
=補講・資料=
北西航路(北大西洋)=2/4=
1745年、イギリスは北西航路の発見者に賞金を出す法案を成立させ、1775年の法案延長時には賞金は2万ポンドに上積みされた。 1778年、この賞金を得ようとしたイギリスの海軍本部は、ジェームズ・クック(キャプテン・クック)を航海へと派遣した。クックは二度の太平洋航海を行って引退していたため、当初はチャールズ・クラークが航海を指揮しクックは顧問として本国から支援する予定であったが、クックはベーリングの航海結果に探検欲を刺激され、結局経験のあるクックがクラークを従えて航海に出ることになった。 この航海に同行した士官にはウィリアム・ブライ、ジョージ・バンクーバー、ジョン・ゴアといった後のイギリス海軍の探検家となる者たちも参加していたが、彼らは北西航路の存在は証明できないと考えていた。
太平洋を航海しヨーロッパ人として初めてハワイに到達し、1777年4月にヌートカ湾(Nootka Sound、バンクーバー島西海岸)を出たクックは北西航路を西から東へ航行するためまず北米西海岸沿いに北へ向かい、ロシア人たちが40年前に通ったアラスカの沿岸の詳細な海図を作成し学術調査を行った。 海軍本部の命令は北緯65度に達するまでは途中の川や入り江は無視せよとの内容だった。しかし一行が北緯65度に達する前に海岸線は南西方向へ向きを変え、一行は緯度の低い方へと押しやられていった。 ゴアはクックを説得し、航路を見つける望みを託して、北へ切れ込んだクック湾へと入って行ったがその先は行きどまりであった。
一行は海岸線に沿ってさらに南西へ進み、ついにアラスカ半島の先端を越えベーリング海へと入ることができた。 だが北緯65度を越え、70度に達したところでベーリング海峡の氷山と流氷に行く手を阻まれ、その先に進むことはできなかった。 クックらはロシア人たちの発表した「見せかけだけの発見」と、地理学上の幻想にすぎなかった北西航路を呪いながらハワイ諸島に戻った。クックはハワイで戦没し、クラークらは再度ベーリング海峡に挑戦したが失敗し、一行はイギリスへ戻った。
1791年から1795年にかけて、ジョージ・バンクーバーはヌートカ湾やハワイ、サンフランシスコ(当時スペイン領)などを拠点にブリティッシュ・コロンビアを中心とした北米西海岸を探検し海岸線の調査を行い、ベーリング海峡以南には北西航路へ抜ける水路は存在しないことを明らかにした。 この結論は、カナダ内陸から北極海までの広い範囲を探検し、1793年に陸路でカナダの太平洋岸へ到達したアレグザンダー・マッケンジーの記録によって裏付けられた。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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