○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ ・・・・・・単独行・・・・・・ =1/5= ◇◆
単独行。 パートナーや組織をつくらずに、たったひとりで行く。 植村直己は単独行の冒険家だった。
単独行ということは、植村直己を考えるさいに、はずすことのできない視点である。 というより、それはほとんど植村を植村たらしめている核心であった。 山に登り始めた学生時代から植村は日本の偉大な登山家“単独行者”である加藤文太郎に憧れていた。
登山や冒険をチームを組んで行なうほうが一般的なやりかたである。 たとえば、極地法といわれる行動のしかた。 基地を置き、そこから第一、第二、というぐあいにキャンプを先に進め、最後にアタック・キャンプから目標点をめざしてそこに到達する。
目標点は、北極点であったり、またエベレスト山頂のように山であったりもする。集団で、一定の方法をもって目的を達成しようとする、一種の社会的行動のような冒険行。 それが極地法である、ともいえる。 そこには指揮者=隊長と、コマとなって動く隊員がいる。
集団で探検や冒険を行なうこの方法は、19世紀の西欧で確立されたものだが、日本人にとっても親しみやすい行動様式であった。 われわれは、集団であることと、そこでの協調(チーム・ワーク)をもっとも大切なものとしている。 単独の人間にある前に、何かの一員である。 それが日本人の発想の根本にある。
植村直己は違っていた。 最初から違っていた。 まずひとりであること。 それが発想の根もとにあった。 単独行について、理屈ばったことはほとんど何もいわなかったけれど、ごく自然に、あたりまえのように、ひとりでやれることはひとりでやろうとし、ひとりでやった。 その点、日本人離れしていたといってもいいだろう。
それにしても、ひとりで行動するときに、ひとりであることからくる恐怖や不安はないのだろうか。 ひとり、といっても、机の前に座って考えごとをしているのではない。 苛酷な自然のなかで、目標に向って、ひとりで行動しているのである。
たとえば、1974年12月から76年5月にかけて行なった、北極圏1万2000キロの旅。 グリーンランド(デンマーク領)を北上し、スミス海峡を渡ってカナダ北極圏に入り、アラスカ(アメリカ合衆国)のベーリング海峡に面したコツビューに至る。 北極海を中心にして地図を見れば誰もが実感できるだろうが、途方もない距離の、氷と雪の世界である。 そこをエスキモー犬に橇をひかせて走る。 ひとりでやることの恐怖や不安はないのだろうか。
ひとりで犬橇を走らせるという、技術上の困難さはひとまずおくとして、氷の上をひとりで行き、夜になればテントを張ってひとりで眠る。 孤独であることの心もとなさはないのだろうか。 私にはそれが疑問で、私的な話のなかでも何度か尋ねたし、活字になるインタビューでも質問してみたりもした。
植村は答えている(『植村直己と山で一泊』ビーパル編集部・編、小学館文庫。 なお、文中で明らかにしているように、私はこのときインタビュアーをつとめた)。
《BP(ビーパル) われわれが勝手に想像してみますと、北極のだだっ広い氷海の上に、夜、テントを張ってポツンとひとりでいる。 そんなところでひとりでシュラフに入って横になっていると、いろんな妄想がわいてたまらないような気がするんですが。
植村 ≪たとえばブリザード(地嵐)が来たりすると、動けなくなって、二日も三日もテントの中でじっとしているでしょう。 そういうときにね、妄想というんじゃなく、過去の出来事が頭の中をサーッと流れていくんです。 思い出そうとしてるんじゃなく、だから年代を追って出てくるんじゃないんですが、たとえばアマゾンを下っていたときのシーンとか、初めて山に登ったときの光景とか、ふだんは少しも考えていなかったようなことが、向こうから次々に現れてくるという感じで出てくるんですね。
いろんな過去の断片が流れていく。 忘れていたようなことがはっきり出てくるから、前には気づかなかったことがそのとき不意にわかったりすることもあります。
それはすごく楽しい時間でしてね。妄想に苦しめられるどころではなく、なんか充実した楽しさですね。 だから孤独とか淋しいとかいう感じは全然ないんですよ。》
私はこういう発言を聞いて、自分なりに納得するものがあった。 孤独であることが淋しくないとすれば、たしかに孤独には一種の楽しさがある。 それを植村は卒直に伝えようとしているのだ。
先にふれた1万2000キロの旅の記録である『北極圏一万二千キロ』(文春文庫)は、植村の著書のなかでも私はとりわけ愛好しているものだが、そこで次のようなくだりがある。
=補講・資料=
加藤文太郎
加藤 文太郎(1905年(明治38年)3月11日- 1936年(昭和11年)1月5日)は日本の登山家。大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町b出身。加藤岩太郎・よねの四男として生を受ける。兵庫県立工業高校夜間部卒業。1923年(大正12年)頃から本格的に登山を始める。神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務。1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。
複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデルとなった。
当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である。非常に歩くスピードが速かった文太郎は、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たという。距離は約100kmに及ぶ。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなった。
1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となる。1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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