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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《河江肖剰》 =038=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠ 

◇◆ ピラミッドに新たな〝未知なる空間“の発見(前編) = 2/2= ◇◆

(ピラミッドの中には)多彩の花崗岩でつくった部屋が30もあり、貴重な宝石やおびただしい財宝、珍奇な彫像の類きらびやかな道具や武器のたぐいで充満しておりますが、それらはみな復活の日まで錆びぬように、英知を尽くして調製した香油が塗ってありますよし。 さらにまたその中には折り曲げても、割れることのないガラス器、および(その中の)さまざまに調製された薬品や、各種の調合水薬などがあるとのことでございます。 (前嶋信次(訳)、『アラビアンナイト(10)』、平凡社、1979, 1995(第9刷)より)

 千一夜物語の話は、創作、多大な粉飾をつけられた逸話のように考えられている。 物語の内容とは異なり実際には、中王国時代にはすでにギザのピラミッドは開けられていた可能性が高い。 ギザ第四のピラミッドともいわれるケントカウエス女王墓から中王国時代(紀元前1980~紀元前1760年頃)のスカラベが発見されていたり、三大ピラミッドの複合体が解体され、当時の王であったアメネムハト1世のピラミッドで再利用されていたりするからだ。

ダイナマイト調査と非破壊調査

 それでは数千年の盗掘を免れ、現代まで開けられていない部屋はあったのだろうか?  実は、これまでにいくつか発見されている。

 1837年、英国の陸軍士官で探検家であったハワード・ヴァイズは、大ピラミッドの玄室の上に、高さの低い、不思議な空間を見つけている。 現在、「重量拡散の間」として知られる5つの小部屋だ。 一番下の部屋は、古代から出入りすることができたが、残る4つはヴァイズがダイナマイトで発破をかけて、入れるようにしたものだ(いったいどれほどの音と振動がピラミッドを揺るがしたのだろう・・・)。

 彼が見つけたそれらの空間には財宝などはなかったが、労働者のチーム名が書かれた「落書き」が見つかっており、そのやり方はともかく、考古学的には非常に重要な発見として知られている。

 ピラミッド内部を「非破壊の方法」で最初に調べたのは、ノーベル物理学賞を受賞したルイ・アルバレである。 彼は、X線によって人間の身体を透視するように、宇宙線によってピラミッド内部を透視できないかと考えた。 そこで、1967~68年に、宇宙線の一種であるミューオンを検出する装置をカフラー王のピラミッド内部に数カ月間設置し、分析した。

 アルバレのチームは、カフラー王の父親であるクフ王のピラミッドや祖父であるスネフェル王のピラミッド内部には部屋が2つ以上あることから、カフラー王のピラミッドにも見つかっていない別の部屋があるのではないかと考えた。 しかし、最終的には、ミューオンが検出できる範囲にはそういった部屋は見つからなかった。

 そして、いまから約30年前の1986年に、2人のフランス人建築家によって、「未知の空間」探索において、最も重要な調査と発見が行われたのである。

=資料・文献=

アテン、アトン(Aten)は、エジプト太陽神の一つ。 もともとは夕日を神格化した神で、テーベで祀られていた[1]が、マイナーな地方神の一つにすぎず、これといった神像も神話もなく、どんな神なのか、はっきりした性質ももたなかった。そのため当初から人々の解釈としては、夕日の神であることから、太陽神ラーと同一視されたが、あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて、天体としての太陽を表すようになっていった。

宗教改革の開始

アメンホテプ4世の妃ネフェルティティはアテン神[2]を信仰していた。妃の影響もありアメンホテプ4世もアテン神を信仰していた。一方、当時エジプトで信仰を集めていたのはアテン神ではなく、旧来の太陽神アメンであった。 アメンホテプ4世の治世に於いてアメン信仰は全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇った。 アメンホテプ4世は、アメン神団を抑圧し王権を強化する目的で、自分の名も『アクエンアテン』に改め、アメン神の文字を削った。

王家としてのアメン信仰を停止し、アテン信仰をもってこれに換えたのみならず、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、多神教ではなく一神教の様相を呈するに至った。 これを「アマルナ宗教改革」または「アマルナ革命」という。

アテン神の変貌とアマルナ美術

アテン神は、動物的、人間的形態である他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現された。 またアテン神は平和と恵みの神とされた。  事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、アマルナ時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。

終焉・宗教改革の失敗

この宗教改革は、あまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、疫病などの蔓延もあり、最終的に失敗に終わった。 アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その息子であるツタンカーメン王の時代にエジプトはアメン信仰に戻った。 アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅した。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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