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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《河江肖剰》 =017=

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

新たなピラミッド像を追って、エジプト考古学の魅惑の世界=河江肖剰=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 発掘調査と先端技術によって、古代のピラミットの実像に迫る ☠

◇◆ エジプト革命と発掘隊の危機管理 = 1/3= ◇◆

 毎年、この時期になるとエジプト革命を思い出す。

 2011年の1月から2月にかけて、私は仲間とともに、ギザの「ピラミッド・タウン」で発掘を行っていた。その当時を思い返すと、まず浮かんでくるのは天候のことだ。 ピラミッドには非常に珍しく雨が降り、これまで見たこともないような雲が天空に流れ、季節外れの砂嵐が起こった。 奇妙で不安定な空を見ていると、国中の人々の不安を表しているようだと感ぜずにはいられなかった。

 私たちは、気がつけばあっという間に革命の混乱に巻き込まれていた。 遺跡は閉鎖され、これまでパレードのときにしか見たことがなかった戦車や装甲車が至るところに配置された。携帯電話は遮断され、交通機関は麻痺し、新鮮な食料の確保も難しくなった。泊まっていたアパートの下で銃撃戦が起こったこともあった。 危険や緊張感はあったが、国がより良い方に、民主的なものに変わるかもしれないという期待や高揚感がそれを上回っていたように思う。

 あれから5年が経った。しかし、世界は、当時思い描いていたものとはまったく違う様相を見せている。 いまは、どこでなにが起きてもおかしくない状況になってしまった。

 そこで、今回は、革命の最初の数日間にどのようなことが起こり、私たち外国の発掘調査隊がどのように行動したのか、どんなことに注意していたのかを書いてみたいと思う。 革命や暴動などには巻き込まれないのが一番だが、万が一の自衛のひとつとして、少しでも参考になれば幸いである。

革命の4日間

 2011年の調査に参加していた正確な人数は覚えていないが、外国からは20人ほど参加していたと思う。 1月下旬は、まだ発掘が始まったばかりということもあり、隊長のマーク・レーナー博士を含め、到着していないメンバーもたくさんいた。 国籍は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、ポルトガル、日本と様々だった。

 ディグ・ハウス(Dig House=宿舎兼研究室兼アーカイブ保存所)はギザのピラミッドのすぐ側にあったが、そこだけでは収容人数が足りなかったために、近くに何カ所か大きなアパートを借りて、寝泊まりしていた。 私も、イギリス人、ポーランド人、エジプト人たちとともに、歩いて5分ほどの場所にあるアパートに泊まっていた。

 発掘が始まってから1週間ほど経った1月25日(火)、隣国チュニジアの政変を受け(「アラブの春」の始まり)、カイロやアレクサンドリアなどで大規模なデモが行われた。 その頃からインターネットが断続的に遮断され始めた。 しかし、発掘調査隊のなかにはそれほどの緊張感はなく、続く26日(水)と27日(木)は通常通りの発掘調査を行っていた。 みな、すぐに、いつもの生活が戻ってくると思っていた。

 1月28日(金)の早朝から、インターネットが完全に遮断された。さらに携帯電話もボーダフォン以外は遮断された。 正午からはボーダフォンも繋がらなくなった。 普段はほとんど使うことのない固定電話が外部との連絡の要となった。 しかし、これもすぐにパンク状態になり、常に通話中になることが多く、なかなか繋がらなかった。

 エジプトでは通常、政府は金曜日に行われるイスラム教徒の集団礼拝後のデモを警戒する。 そのためネットも携帯も政府によって遮断されたのだと噂された。 外はいつもより人通りも車も少なかったが、それ以外は普段とあまり変わらない金曜日だった。 私たちは徐々に事の深刻さを感じていったが、事態はそれ以上に急激に変化していった。

 16時には、カイロ、アレクサンドリアなどで外出禁止令が敷かれた。翌朝の7時までという公表だった。私たちは早めの夕食をチームで取り、ディグ・ハウスで対策を練った。 そうしている間に、19時には、外出禁止令がエジプト全土に広がったというニュースが入ってきた。 誰もが情報を欲しており、テレビやラジオに釘付けになった。

=資料・文献=

エジプト・ピラミッド学(7)

その後、南部のテーベの王朝が再統一を果たしエジプト中王国時代が始まるとピラミッドの造営は再開され、エジプト第12王朝の諸王によっていくつかのピラミッドが建設されるが、ラフーンのピラミッドハワーラのピラミッドなどに代表されるこの時代のピラミッドには技術の衰退の跡が顕著に見られ、日干しレンガによって建造されたこれらのピラミッドは風化によって崩壊し、現代においては小山のような姿をとどめているに過ぎない。 ただ一方で、葬祭殿の充実が進んでいったことから、エジプト人の価値観・宗教観の変化が指摘される。

また、ピラミッドが王墓でないという説では、ピラミッドは葬祭用の施設の一部にすぎず、墓と合体させて作る場合もあるが、墓の本体ではないとする。 その後ピラミッドは王朝の衰微とともに再び建造されなくなっていき、とくにピラミッド複合体は中王国時代をもって姿を消した。 紀元前16世紀、エジプトを再統一しエジプト新王国時代を開いた第18王朝イアフメス1世アビドスに小さなピラミッドを建造したが、これがエジプトにおける王のための最後のピラミッドとなった。 これ以後、王族は王家の谷などの墓地に埋葬されるようになり、大型のピラミッドが建造されることはなくなった。 ただし、私人用の墓地に小さなピラミッド形のシンボルを作ることはその後も長く行われた。

旧来、ピラミッドの建設は多数の奴隷を用いた強制労働によるという説が主流であったが、奴隷を徴用した証拠がないという点から一部の研究者には疑問を抱かれていた。 近年のピラミッド労働者の村の発掘で、労働者たちが妻や子供といった家族と共に暮らしていた証拠や、怪我に対して外科治療が行われていた痕跡が墓地の死体から見つかり、現在では奴隷労働説は否定されつつある。 また、2010年にはクフ王のピラミッドのそばに建設に携わった労働者の墓が発見されたことも、奴隷労働説を否定する傍証のひとつとなっている

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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