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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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今日(狂)の狂言 : 11月05日(火曜日) &旅と文化の足跡が野帳

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★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 ★

☆ ハワード・カーターが王家の谷で盗掘に専念、その執念とカーナヴォン伯の援助でツタンカーメンの黄金マスクを入手(1922年)。されど、「ツタンカーメンの呪い」に遭う。 ☆ 8年前にJFKに苦杯を飲まされたリチャード・ニクソンが、雪辱を果たす(1968年)。しかし6年目にして任期途中の水門事故でホワイトハウスから去ることになろうとは、誰も予想しなかった。 ☆ 自作の動画・尖閣諸島中国漁船衝突事件によってSENGOKU38がネ申となった日(2010年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 20回= ◎ ◎

1956- «世界をアッと驚かせた大スクープ「バウンティ号発 」!(2/2) »

= Webナショジオ そうだったのか! 『ナショナル ジオグラフィック』 =

……National Geographic Journal Japan 〉/ 2012年10月24日 / (Web編集部) ……

   1790年11月にフリゲート艦パンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の捜索のために出航した。1791年3月にパンドラ号はタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕したエドワーズ艦長はブライ艦長よりもはるかに過酷な取り扱いをした。

パンドラ号はその後もバウンティ号の捜索を続けたが、8月30日にグレート・バリア・リーフの近くで、暗礁に乗り上げ沈没し、ピトケアン諸島に渡った反乱者たちを見つけることはできなかった。この沈没で31人の船員と4人の囚人が死に、残った89人の船員と10人の囚人が、1792年にイギリスに戻った。10人のうち、4人が無罪、2人が有罪だが恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になった。

さて、その結末やいかに!

「忠臣蔵」のような反乱に加えて、「岩窟王」よろしく復讐の要素もあり、そして、漂流モノ的なサバイバルやピトケアン島に移住した反乱者たちの悲惨な末路、さらにはピトケアン島にはいまも反乱者たちの子孫が住んでいるといった事実も加わって、興味は尽きません。

 本はたくさん出ていますし、映画もアカデミー賞を受賞した『戦艦バウンティ号の叛乱』はいまもDVDが売られているので、知らなかった人はこの機会にぜひご覧になってみてください。史実と異なる部分もあるようですが、ホント面白いですよ。クラーク・ゲーブルがカッコいいのはもちろん、艦長役のチャールズ・ロートンがとってもいい味出してます。

1808年1月にアメリカ船トパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、バウンティ号の乗組員は水夫ジョン・アダムスのみが唯一生き残っていた。トパーズ号のメイヒュー・フォルジャー船長はフレッチャー・クリスチャンの息子サースディ・オクトバー・クリスチャンの案内で、アダムスのほかに子供二十数名、ポリネシア人女性10名がピトケアン島で暮らしていることを知った。その他の反乱者はタヒチ人との衝突で大半が相打ちとなり、数少ない生存者も病気、自殺、喧嘩などにより既に死亡し、生き残ったのはアダムスと女性や子供だけであった。

クリスチャンも衝突で殺されたと言われている(アダムスは恩赦となり、1829年に島で死亡した)。1838年、ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。バウンティ号が解体された場所はバウンティ湾と名づけられ、現在でもその残骸が残っている。

 さて、バウンティ号の反乱の紹介を終えたところで本題に移りましょう。ふぅ。今回は前置きが長かったですね。すみません。

 バウンティ号の物語に魅せられていたカメラマン兼ライターのルイス・マーデンは、1954年に偶然フィジーの博物館でバウンティ号の舵に出会います。

 資料によれば、バウンティ号は燃やされたとされていて、それまで誰も探そうとしませんでした。しかし、舵の様子からマーデンはピトケアン島に行けばさらに遺品が発見できると確信し、編集部に提案をもちかけます。

 その探索がかなったのは1956年の12月のこと。当初は「6週間も海底をなめるように調べたものの、何も見つからなかった」と苦戦します。

 しかし、滞在日数が残り少なくなったある日のこと。反乱者だった航海士の子孫レンと潜っていたマーデンはついにやりました! そのときの様子を『ナショナル ジオグラフィック』1957年12月号の「バウンティ号の残骸を発見(I found the Bones of the Bounty)」のなかでたくさんの写真とともにレポートしています。

「私は顔を海底に触れんばかりに近づけた。心臓が飛びあがった。虫のようなものはサビに覆われた釘だった。バウンティ号の釘が何10本と散らばっていたのだ。レンを見上げると、真上にいた彼は不思議そうにこちらを見つめていた。彼の腕をつかんで乱暴に引っ張り、釘を指さした。彼は笑顔でうなずいた。私たちは再び握手をした。バウンティ号が眠る場所をついに発見したのだった」(『ナショナル ジオグラフィック日本版』2000年11月号「偉大な写真家ルイ・マーデンの挑戦」より)

マーデンはこの大発見がほかに漏れるのを防ぐため、ある工夫をしました。それは事実をストレートに報告するのではなく、「ダイシャクシギの巣を見つけた」というメッセージを送るというものです。メッセージを受け取った協会は、もちろんこのメッセージの意味をすぐに理解し、すべてを内密に進めました。

 おかげで、1957年12月号の記事は世界的なセンセーションを巻き起こしまします。  この反響の大きさは協会にある変化をもたらしました。

 マーデンの発見が世界中で大評判になったため、翌58年の1月のルイス・マーデンとメルビル・グロブナーがNBCのテレビ番組『オムニバス』にゲスト出演します。さらに協会は『バウンティ号の残骸』という映画を製作。これがテレビでも放送されて大ヒットし、メルビルはその影響力の大きさを思い知って、テレビ番組に乗り出す火付け役となります。

次回は “ « 人類学をみんなに広めたルイス・リーキーの大発見 » “ を記載、続きます・・・・・

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上部記載文中、文字色が異なる下線部位を右クリックにて“参考記事”を開示

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