☆ 蒋介石一派に燻り出された中国共産党が集団で夜逃げし、以後2年間・12,500kmにわたるガンパレード・マーチに出発(1934年=西方への長征を開始)。 ☆ 第二次世界大戦中さんざん日本軍に協力したインドネシア独立派が、敗戦で利用価値が無いと見るや武器を分捕るために攻撃を仕掛ける(1945年=スマラン事件)。 ☆ 長崎県平戸口発長崎行きの西肥バスが「アソレンゴウ セキグン」と名乗る覆面レスラー風の男2人組に乗っ取られる(1977年=長崎バスジャック事件)。
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1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (5/5) »
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2012年6月06日 / (Web編集部)
コダック・カメラはその後も順調に売れゆきを伸ばし、キャッチフレーズの「あなたはシャッターを押すだけ。あとは私たちが引き受けます(You press the button. We do the rest.)」は、政治家の演説やお笑いの舞台で引用されたそうです。
また、このヒットのおかげで「コダック」という言葉が「カメラ」という意味で使われるようになります。売れた商品の名称が一般名称にとって代わることは珍しくはありませんよね。それこそ「写ルンです」とか「エスカレーター」とか「ホカロン」とか「オセロ」みたいに。
そんなわけで、コダック・カメラの発売から4年後の1892年、ジョージ・イーストマンは会社の名前を「イーストマン・コダック」に変更します。社名はその後もときどき微妙に変わったけれど、以後、「コダック」という言葉が消えたことはありません。
●ロールフィルム発売(1890年)
同じく1888年にコダックは透明で丈夫なフィルムのベースの開発に成功。2年後の1890年に円筒状に巻いたロールフィルムを発売します。おかげで乾板を1枚1枚差し替えたり、フィルムの交換のためにカメラを返却したりする必要がなくなりました。
また、ロールフィルムはエジソンが発明した映画にぴったりで、のちにハリウッドのほとんどの撮影所がコダックのフィルムを使うようになり、莫大な収入源になります。 かんたん便利なロールフィルムは発売と同時に世界規模で大ヒットします。1890年代のなかばには毎月約450キロメートルものフィルムがつくられ、10万台のコダック・カメラが売れるようになりました。
この間にコダックは急成長を遂げ、ほかをどんどん引き離します。
●「ブローニー」カメラ発売(1900年)
「ブローニー」という名称は開発者であるフランク・ブラウネルにちなみます。新造語ではありませんよ。念のため。 このカメラのつくりはきわめて簡単で、いまでも同じ形式の中判カメラをブローニーと呼ぶように、箱にレンズとロールフィルムを装着するシンプルな基本構造は当時からほとんど変わっていません。
いちばん驚くのは、当時コダックがカメラ市場をほぼ独占していたにもかかわず、わずか1ドルという破格の安値で販売したことです。
おかげで、ブローニーは1年弱で約25万台を販売。さらに、のちに発売された「フォールディング・ポケット・ブローニー」は50万台近い売り上げを記録します。フィルムの生産は月約600キロまで伸びました。この時点でコダックのリードは確定的なものとなりました。
●ピアリの北極探検で活躍(1909年)
コンパクトで高い品質を誇るコダック社の製品は、冒険家や探検家にも支持されました。なかでも、北極点にはじめて到達したロバート・E・ピアリはコダック製品をとても気に入り、積極的にPRします。ほかにも、エジソンをはじめ、有名人の発言をイーストマンはたくみに宣伝に利用しました。プロモーションに「コダック・ガール」を起用したりもして、メディア戦略に長けていたのはコダックの特徴のひとつでした。
●「コダクローム」発売(1935年)
すでに述べたように、カラー写真に革命をもたらした画期的なフィルムの開発に成功。カラーフィルムの決定打となり、日本のメーカーが追いつくまで、フィルムでは長らくコダックの独占状態が続きました。ちなみに、前回コダクロームの発売は1936年と書いたのは写真用だからです。映画用のフィルムはその1年前の1935年に発売されました。
ところで、実はコダクロームを発売する前年に、(いまでは当たり前の)明るいところでも使えるカセットタイプのフィルムをコダックは発売し、同時に、それが使える「レチナ」というカメラも売り出していました。「レチナ」とは「網膜」の意味。そう、新型iPadのディスプレイと同じ名前です。「レチナ」は、ライカとコンタックスと並んでコダクロームの普及に大いに貢献します。
以上、1930年代までの重要なトピックスをざっと挙げてみましたが、コダックがこれほど成功したのは、写真の可能性を信じ、当初はごく一部のお金持ちのものだったカメラを“鉛筆のようなも 社名のエピソードからわかるように、彼はとてもユニークで魅力的な人物でした。そして、真のイノベーターでした。いまの時代でいえば、スティーブ・ジョブズか、あるいはそれ以上だと感じるのは中の人だけでしょうか。
そんなイーストマンの話もぜひしたいところですが、さすがに長くなるので、もっとも印象深いこの話で終わりにいたしましょう。
1930年代にはイーストマンは70代の後半を迎え、重い病気に苦しんでいたこともあり、第一線から退いていました。生涯独身をつらぬいた彼は、晩年に莫大な財産のほとんどを寄付します。そして、1932年3月14日、自宅に親しい友人を招いて遺書を書き直したのち、2階の自室で拳銃自殺を遂げました。77歳でした。
彼が残したメモにはこう書かれていました。
「友よ。私の仕事は終わった。お先に失礼(To my fiends: my work is done. Why wait?)」 のにしよう”と写真の普及に情熱を傾け続けた創業者ジョージ・イーストマンのおかげです。
次回は “ «ルーズベルトからチャーチルへの贈り物 » “ に続く・・・・・
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