Quantcast
Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2016

進化から見るヒト・日本人のルーツ / 海部陽介(09/14)_学究達=351

$
0
0

ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年11月30日<ⰧⰊⰧ

☆★ 化学兵器による全ての犠牲者を追悼する日。 こんな日がありとは日本人は知る由もない。☆★ オスカー・ワイルドが死んだ日(1900年)。男色者から崇拝される皇帝のような人間。むしろ神。サロメチールの発明者にして『幸福な王子』でデビュー。☆★ ココム設立(1949年)。ココム…お判りかな、1994年3月に解散したのでご安心のほど。 さあれど、筑波研究学園都市がひらがなのつくば市となり、その知的レベルの低下が暴露される(1987年)。

本日記載附録(ブログ)

猿人、原人、旧人、新人―何百万年も前から進化してきた人類

ホモ・サピエンス=つまり、我々=だけがなぜ地球上に拡散し、文明を発展させたのか

人類進化の「常識」を覆すフローレス原人 !!?……

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

  人類進化・拡散史の解明に実証的に挑む=海部陽介= 

海部陽介(09/13) ◇◆ 第4回 アジアに来たとき、ヒトは何をしていたのか =1/2= ◆◇

 国立科学博物館の海部陽介研究主幹は、研究者である父親の背を見て育った。

 父上は、海部宣男・国立天文台名誉教授で、世間的には、ハワイ島のマウナ・ケア山頂に建設された「すばる望遠鏡」計画のリーダーとしての知名度が高い。現在は、国際天文学連合(IAU)会長を務める、天文学の国際的重鎮だ。

 「やっぱり父の影響というのは当然あって、自然科学には興味がありました」と息子である海部陽介さんは述べる。「あと歴史だとか考古学も好きだったんです。そういう研究者になりたいと子供のときから思っていて、その中でどれが面白そうかなと。父親のやっていないことの方がよかったので、天文学は排除して、それで一番面白そうなのはどれかと考えるうちに、人間の進化の研究、というふうに思ったんですね」

 海部さんが、人類進化の研究を志したのは、大学に入る前だったようだ。文化人類学ではなく、化石を扱う自然科学系の人類研究というと、当時、本格的な研究ができる大学は東京大学か京都大学しかなく、海部さんはそれを意識して東大に入った。

 「でも、当時、本当にどういう研究をやってるのかもわかってないし、それをやってどうなるのかも理解してなかったですね。実際にやりはじめて10年くらいたって、やっとわかってきたというか。学部生で進路を決めたとき、今、東大総合研究博物館にいらっしゃる諏訪元先生が、わたしの所属していた東大の講座に移ってこられたんです。アフリカのいろんな猿人のだとかのレプリカを個人的に持っていて、みんな初めて見るものばかりで、そんなレプリカ見るだけで感激していたのをよく覚えていますね」

 海部さんは、特にアジアの調査研究をしたいという希望を持つようになる。人類進化というとなにかとアフリカが注目を集めるが、我々はアジアに住んでいるんだから、という気持ちがあったのだそうだ。

 「それでインドネシアに行くかと国立科学博物館におられた馬場悠男先生に誘われて、それはもう大喜びして出かけていったのが最初です。それからジャワ原人の研究をずっとやっていくことになるんですが、でも、原人ばかりを見ていたいわけではないんですね。ジャワ原人を1つの突破口にして、アジアから人類の進化全体を見たいわけです」

 ジャワ原人は、むかし、ピテカントロプス・エレクトス(日本語では直立原人)と呼ばれていた。しかし、今では、北京原人(以前の学名はシナントロプス・ペキネンシス)や、アフリカのやや古い原人とあわせて、ホモ・エレクトスで一括されている。つまり、独自のピテカントロプス属やシナントロプス属ではなく、ホモ属としてまとめようという立場だ。

 ただし、ジャワ原人と呼ばれるジャワ島から出てくる一連のホモ・エレクトスだけを見ても、100万年の歴史があり、その中で変遷してきた。海部さんが解明にかかわり、国立科学博物館に展示してあるものだけでも、以下のようなバリエーションがある。

・・・・・・明日に続く

○○ 参考資料: 祖先が挑戦した命がけの航海”への挑戦 =4/9= ○○

= 私たちはどこから来たのか? 3万年前の航海再現で探る日本人の起源 =

——たとえば男女10人組が偶然、沖縄の島に漂流した可能性はないのでしょうか?

海部 黒潮に乗って漂流したと簡単に言う人もいますが、島に漂着する確率と日数を考えなければなりません。まあその確率はとても低いのですが、実際に検証するため、台湾大学の海洋研究所と共同で、海洋学で使われている漂流ブイのデータ解析を行う計画を進めています。

それから漂流するといっても、当時の人たちは地図も何もないわけで、海の向こうに何があるのかは知らないわけです。ですから、冒険的な漂流なんていうのは、まずあり得ません。

——ほかにも、意図的な航海の証拠となるものはありますか?

海部 静岡や神奈川、東京、千葉などにある旧石器時代の遺跡から、伊豆七島の神津島産の黒曜石が見つかっています。これは、少なくともこの地域には、島まで往復する航海術が存在していたことの、間違いない証拠です。

驚くことに、その最古の痕跡はなんと3万8千年前で、日本列島へ最初の祖先たちが渡ったとほぼ同時に神津島の開拓が始まっているのです。

——命がけで「次の島」を探しに行くんですね。

海部 やがて人は、太平洋の真ん中にあるハワイにまでたどり着きます。ハワイだけではありません。何日も目的地が見えないような航海をして、太平洋の島を1千年前までにほとんど全部見つけて、そこに住み着いています。私たちはもう忘れてしまっていますが、祖先にはそれを成し遂げる技術と精神があったということです。

= 「人間とは何なのか」を見てみたい =

——プロジェクトの最終目標は2019年に台湾から与那国島への航海を再現することです。実現できそうですか?

海部 実現のためには、まず資金ですね(笑)。自転車操業なので。公式ホームページに案内がありますので、ご覧頂ければ嬉しいです。来年6月頃には、2回目のクラウドファンディングも予定しています。活動としては、これからもさまざまな実験を続け、3万年前はこうだっただろうというモデルを決め、それで2019年の本番にのぞもうという計画です。

本番の航海はとても難しいものになると覚悟しています。目標の島は海上からは見えないわけですし、世界最大の海流である黒潮を越えなければならない。ほとんど休まずに、3日くらい漕ぎ続けなければならないでしょう。でも、実際に先人はたどり着いているのだから、どうやって日本列島に来たのかをどうしても知りたいと思っています。

海をよく知る人ほど、「漕いで行くのは無理だ」と言います。「なぜ帆を使わないのか」と。しかし、縄文時代の遺跡から出てくる丸木舟に、帆を使っていた証拠はどこにもありません。古墳時代の埴輪を見ても、みんなオールで漕いでいます。

風の力で船を動かすというのは、とても高度なことで、日本で取り入れられたのは歴史時代のようです。原始的な帆では、追い風を利用して前に進むことはできても、風向きが変わったらそうはいかない。それに細長い丸木舟のような舟に帆を立てたら、バランスが悪くなり転覆の危険性が増すだけです。

関係者で検討に検討を重ねた結果、つらいけれど、やはり漕いだとしか考えられないという結論になりました。この点についても、さらに別の角度から検証を進めていますが、結論が変わることはないでしょう。

明日に続く・・・・・

⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡ ⬢ ⬡

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

前節へ移行 : : https://blog.goo.ne.jp/bothukemon/e/acc2f922e074ec979311ab0fb5b977f7

後節へ移行 : http://blog.goo.ne.jp/学究達=352=/xxx

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【浪漫孤鴻;時事自講】 :http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【壺公夢想;如水総覧】 :https://thubokou.wordpress.com/

================================================  

森のなかえ

================================================


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2016

Trending Articles