ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月25日<ⰧⰊⰧ
☆★ 明治神宮外苑に国立競技場が竣工(1924年)。この時のは東京オリンピックを前に建て替えられ、その建て替えたのも再度のオリンピックで解体されたものの、揉めに揉めて森林を大量に伐採し酷暑でも寒風でも吹き曝しという代物が建設中。☆★ 和田アキ子が芸能界に実戦配備、「星空の孤独作戦」が開始される(1968年)。☆★ 台湾に捨てられた中華人民共和国が世論の同情をかって国連に入れてもらえる(1971年)。尚、中華民国(台湾)は国連を脱退。新参の中国は常任理事国に・・・・・
本日記載附録(ブログ)
表向きは生物統計学の上席研究員にして大学教授。しかし、その裏では体系的な認識のルーツと本質を探求/宗教、写本、はては「百鬼夜行絵巻」など
曰く、日本の進化学者/国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構農業環境変動研究センター環境情報基盤研究領域 統計モデル解析ユニット専門員にして、農学博士(東京大学)
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
統計学を駆使してさまざまな対象に切り込む“系統樹ハンター”=系統樹思考の世界=
三中信宏(07/13) >◇ 第三回 ハヤブサがタカよりインコに近かったことが示すもの=中節= ◇
本来なら、こういった系統推定の仕方について、もっと具体的に詳しく述べるのもアリだと思うのだが、三中さんのインタビューで、この点にばかり説明を費やすのはもったいないと感じるので、この程度で。
というのも、三中さんが研究者として「裏」のテーマに惹きつけられるようになった時点で、こういった方法はおおむね確立しており、三中さんは、むしろその先に提示される問題に、コミットしてきたからだ。
例えば、分類と系統の問題。
19世紀に進化生物学が登場するまで、生物の系統樹という概念はなかった(もちろん、家系や写本の系譜のような概念はあり、しばしばツリーであらわされていたのは前にも述べた通り)。
一方、人類は有史以前から、生き物のみならず、この世のありとあらゆるものを分類してきた。だいたい、日本語には、魚や鳥、などといった分類が進化論以前からあったわけだし、言葉というもの自体、名前を付けることによって分類することで成り立っている。
つまり、人類はいつでも身の回りにあるものを分類してきたし、学問としての分類学(タクソノミー)も、古くからあった。今の科学につながる二名法による分類体系も18世紀、つまり進化論以前にカール・フォン・リンネが考案したものだ。
分類することと系統を推定することは、どうやら、素性が違うことらしい。
しかし、しばしば、混同される。
もちろん、分類と系統がすっきりと一致するなら、ことは簡単だ。系統樹を反映して、分類を再考したら、直観的にも分かりやすく合理的な分類体系が完成した、というなら、どれだけ幸せだろう。
だが、悩ましいことに必ずしもそうならないのである。
三中さんは言う。
「伝統的な分類は、外見的な特徴が似ている生きものをまとめて群にしてきたわけです。一方で、系統推定では、今まで我々が近いと思ってきた分類群、ある意味、認知的な体系とずいぶん、ずれてくることがあるんです。系統と分類を無理にすり合わせようとしたら──例えば、魚っていなくなってしまう、という話にまでなりますから」
魚がいなくなる? 魚は誰が見ても魚であって、自明ではないか。
などと思う方は、試しに検索してみるといい。Wikipediaの魚類の項目には、「脊椎動物亜門 Vertebrata に属する動物群のうち、両生類と有羊膜類を含む系統である四肢動物を除外した動物群である」と非常にまわりくどく説明してある。そして、その理由として、「煩雑な表現をとったが、これは現在の系統学の立場からこの群を定義するにはこれしかないからである」とある。
系統推定と、従来の分類が、ぶつかるとこのようなことが起きる。そういえば、つい先日、やはり分子生物学的な系統推定から、ハヤブサが、タカなどよりも、スズメやインコに近いことが分かってきたので、分類を変更すると日本鳥学会が発表していた。
いったい、こういったことは、どう考えればいいのだろう?
「系統的な考え方、分類的な考え方、というのがあると思うんですね。僕は『思考法』と勝手に呼んでるんですけど、それぞれの思考法は使われる場面が違うんです。系統的な考え方っていうのは、例えば生物に限定するならば、それこそ時間的な発展の姿ですよね。分類というのは、ある意味、時空的にスパッとこう、切ったときの切り口のパターン。・・・・・
・・・・・・明日に続く・・・
=== 参考資料: サー・ロナルド・エイルマー・フィッシャー (2/2) ===
自然選択の遺伝学的理論
フィッシャーは優生学の熱心な推進者でもあり、その考えは彼の遺伝学に関する著作でも度々言及されている。1930年に出版された『自然選択の遺伝学的理論』では、性淘汰や擬態、権力の発達についての自説を展開しているが、その中で「生物に自然に対する適性を与える突然変異の確率は、今後突然変異の数が増大していくにつれて逆に減少していく」と主張するとともに、「集団数の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べている。
これらの考えは後に集団遺伝学として知られる研究分野の基礎となった。さらにフィッシャーはこの考えはヒトに関しても適用できると述べ、同書の3分の1ほどがそのことについて割かれている。
それによると「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することができる」とし、1911年のイギリスの国勢調査結果を基に、生殖力と社会階級とに逆関係があるという意見を述べた(少なくとも彼はそう信じていたわけだが、この見解は当然ながら客観性を欠くもので、上記の統計結果はむしろ子供が少ないことによる経済的負担の少なさに帰することができると言えよう)。
そして子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子だくさんの家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案しているが、これに関してはフィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育のために彼が負わなければならなかった経済的負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとなり、この発言もそのことと無関係ではないとする家族や友人達の証言もある。
『自然選択の遺伝学的理論』が出版されると、チャールズ・ゴールトン・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの孫)を初めとした複数の科学者が同書を高く評価し、特にダーウィンとはそのことが契機となって少なくとも以後3年間は親密に文通する間柄となった。同書は20世紀後半の進化生物学者ウィリアム・ドナルド・ハミルトンにも多大な影響を与え、彼の血縁選択説が成立する遺伝学的な面での礎にもなった。
また、1929年から1934年にかけて、優生学会はフィッシャーらを中心として、優生的観点から断種を容認する法律(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを行っている。
その後、1933年にロザムステッドを去りユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの優生学教授(カール・ピアソンの後任)となり、1936年に線形判別分析を発表したが、1939年に第二次世界大戦が勃発すると優生学科は解体され、フィッシャーはわずかな要員・備品とともにロザムステッドに戻された。落胆の中で結婚生活は破綻し、さらには長男が戦死する悲運に見舞われた。
1943年に母校ケンブリッジに招かれた。戦争が終わったら遺伝学科を再建するとの約束だったが、約束はあまり果たされなかった(かろうじて1948年にイタリアの遺伝学者カヴァッリ=スフォルツァが招かれ1人だけで細菌遺伝学部門を作った)。彼は細々とマウス染色体のマッピングなどの仕事を続け、1949年にThe Theory of Inbreeding(近親交配の理論)として完成を見た。
その間に多くの賞を受け、1952年にはナイトの称号を受けた。ケンブリッジを1957年に退官した後、オーストラリア・アデレードのCSIROに客員研究員として招かれた。同地で結腸がんのため死去。
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