ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月14日<ⰧⰊⰧ
☆★ 東海道の東の端っこで陸蒸気による1時間のデモンストレーション=新橋-横浜=始まる(1872年)と共に、鉄道教の神聖なる日。よって、鉄道に関する骨董品を集めたとこが、神田・万世橋からさいたま市の北の方へと移転(2007年)。☆★ 一つくらい、いいじゃないかと、国鉄に急行の停車駅を自分とこの選挙区で一つ増やした運輸大臣が辞任する破目に(1966年)。☆★ 長嶋茂雄が我が巨人軍は永久に不滅です! と言い残して引退(1974年)。確かに今に至るまで巨人軍は不滅だが、これ以降は昔の栄光は何処へやら停滞が始まっている。
本日記載附録(ブログ)
発明には失敗がつきものです。失敗を重ねて成功が生み出される。ローラースケートの発明者であるジョンは、まさかの失敗をしてしまう。軽快なる移動器具である車輪靴の発表会でのこと、演出を派手にしようとバイオリンを弾きながら登場したジョン。ここで彼はあることに気がつきます。
ブレーキがない!!?。どうすることもできない彼は、そのまま壁に衝突して止まる。色々な意味で「滑った」発表会になってしまったというお話。史実は、在英ベルギー人のジョン・ジョセフ・マーリンが、1760年にパーティで自身が使用したとされるが、これらが広まる事はなかった。
1863年の米国にて最初のクワッドスケートが発売される。安全で簡単に楽しめる遊具として広まり、ニューヨークシティやロードアイランドのニューポートに専用のリンクが開設された。そして、1979年の米国にてローランドプレード社のインラインスケートが発売される。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
コロナで再燃、健康的なローラースケートの意外と長い300年の歴史……
◇◆ 最初のブームは19世紀後半、革命的なあるモデルが火付け役に =2/3= ◆◇
ルグランのスケートは、その後何十年にもわたるローラースケートの標準的なデザインの先駆けとなる。
米国の発明家ジェームズ・レナード・プリンプトンによって改良された4輪型デザインは、ローラースケートをより簡単で、より楽しいものにした。
ニューヨークで機械工場を経営していたプリンプトンは、医師から健康増進のためにアイススケートを始めるように勧められた。暖かい季節にもスケートをするため、彼はオールシーズンで使用できるローラースケートを発明したのだった。
1863年に特許を取得した彼の「ロッカースケート」は、車輪が靴底に固定されておらず、走行や方向転換が簡単だった。2組の車輪はそれぞれゴム製のクッションとともに回転軸に取り付けられ、体重を移動するだけでスケートが傾き、方向転換できるようになっていた。
プリンプトンの発明から10年以上後のこと、英国の文芸週刊誌「オール・ザ・イヤー・ラウンド」はこう書いた。「このスケートは、これまでに発明されたあらゆる製品と比較して圧倒的に優れており、特許権の侵害が大量に発生している」。様々な改良が加えられながらも、4輪モデルは100年以上の間、最も人気の型であり続けた。
パリを魅了した「車輪の狂乱」
プリンプトンの改良により誰でも簡単に滑れるようになったおかげで、若者の間で最初のローラースケートブームが巻き起こる。1860年代以降、西欧と米国の都市部にローラースケート場が登場し始めた。
ローラースケートを洗練された娯楽として認識してもらうべく、プリンプトンはこれを大衆のものとしてではなく、若き紳士淑女のための「きちんとした」アクティビティとして宣伝した。オーケストラの生演奏と、まだ珍しかった電飾が用いられて、ローラースケート場は最新の世紀末ファッションが彩る社交の場となり、舞踏場と競い合うほどの人気を博した。
1876年の週刊誌「ル・モンド・イラストレ」では、パリを魅了した「車輪の狂乱」が取り上げられ、ロンドンの新聞ではローラースケートの愛好家たちが「リンクマニア(rinkomaniacs)」や「リンキュアリスト(rinkualists)」などと呼ばれた。
医療業界はこうしたローラースケートの影響を評価せねばと感じたようだ。科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」は1885年、「磨かれた床の上で推進力のあるふらふらとした動きを行っていた」人々のうちで「病理学的な結果」の割合は小さい、と結論づけている。
この時期にローラースケートは英国の都市部における移動手段の一つとして推奨され始め、ロンドンのビジネスマン、そして女性たちでさえもローラースケートで通勤した。また、ローラーホッケー(リンクホッケー)の先駆けであるローラーポロが米国と英国の両方で誕生し、同時期にダンススケート大会やスピードを競う大会なども開催されるようになった。
1880年までにロンドンには70カ所、パリには40カ所、ニューヨーク市には少なくとも20カ所のローラースケート場があったと言われる。主要な町には必ずローラースケート場があったのだ。
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: 昭和に流行した「ローラースケート」のお話(1/2) ⨂⨁
はじまりはアメリカからやってきた「ローラーゲーム」だった
ローラースケートの歴史をたどると、その発祥は18世紀初頭のイギリスに遡ります。日本にローラースケートが紹介されたのは明治10(1877)年頃。その後、大正時代から昭和初期にかけて全国各地にスケート場が開設されたことで大衆スポーツとして発展しました。
それから約半世紀。1970年代になって、第1次ローラースケート・ブームがやってきます。きっかけは1972年から東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送されていた「日米対抗ローラーゲーム」。
ローラーゲームとは、アメリカ発祥のエンターテイメント性の強い男女混合のチームスポーツです。番組の「殴る!! 蹴る!! つぶす!! 話題のスポーツローラーゲーム」というワイルドなキャッチでとリンク上のプロレスさながらの迫力で高視聴率をマーク。当時、ローラーゲームの人気を支えた日本のプロローラーゲーム・チーム「東京ボンバーズ」もアイドル並の人気でした。
この頃の子どもたちが遊んだローラースケートは、4輪のタイヤが付いたローラースケートを靴にベルトで留めて履くタイプが主流で、鉄製の本体はけっこう重かった! しかもガチャガチャ音がうるさくてサイズ調整のネジがすぐに緩んでしまう、今思えばかなり粗末な代物でしたね。
しかし、ブームも次第に下火となった1976年、視聴率の低下とともに番組が打ち切られ、東京ボンバーズも解散。日本中を沸かせたローラースケート・ブームの灯は消えてしまいます。
あのアイドル登場で空前のローラースケート・ブーム到来!
最初のブームが去ったあと、1970年代の終わりから1980年代初めにかけて再びアメリカから今度はローラー・ディスコ・ブームの波が日本にやってきます。しかし、このブームはそれほど盛り上がりを見せることなく過ぎ去り、子どもたちへのブームとまではならなかったようです。この頃の子どもたちはローラースケートより、ルービックキューブやゲーム&ウオッチに夢中だったのかも。
そんなローラースケートですが、1987年に再び大脚光を浴びる歴史的瞬間を迎えます。今やローラースケートの代名詞ともなった光GENJIの登場です。ローラースケートを履いて軽やかに歌って踊る彼らは瞬く間に日本中の女子やキッズのハートを撃ち抜き、第3次ローラースケート・ブームを巻き起こします。 ・・・・・・明日に続く
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= 【インラインスケート】物凄い速さで駆け抜けていく! =
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