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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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弱者の武器=モロトフ・カクテル=でロシア軍追撃_(4/5); 歴史深層(052)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月10日<ⰧⰊⰧ

☆★ 辛亥革命が起こった日(1911年)だからか沖縄県が空から攻撃された日(1944年=十・十空襲)ゆえか東京オリンピックが始まった日(1964年)からなのかよく判らないが、この日は全国の銭湯(1010)で戦闘(1010)が繰り広げられるらしい。☆★ 『8時だョ!全員集合』の裏番組として『オレたちひょうきん族』がレギュラー放送として放送開始(1981年)、ドリフターズの独壇場にタケちゃんマンが暴れ始める展開に。☆★ 国産のトキが全滅(2003年)、取り敢えずは隣国からの借り物で何とか保護に努めるが、クローン技術も発達したことなのであんまり問題がないと考えるは・・・・・。

本日記載附録(ブログ)

焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。

第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。

この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……

◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =4/5= ◆◇

== 分断と対立を生んだロシアとの根深い歴史  ==

元はバイキングがつくった同じ国、両国はなぜかくも対立するのか

 ロシアによるウクライナ侵攻の脅威が連日報道されているが、両国の対立は昨今に始まったわけではない。長く複雑にからみあったその歴史を振り返れば、今日の対立の舞台がどのようにできあがったかが見えてくる。

 両国の歴史は、1000年以上前にバイキングが現在のウクライナの首都キエフを中心に築いたスラブ系の大国、キエフ公国の時代に遡る。ウクライナもロシアも起源は同じ国だった。

 西暦988年、キエフ公国のノヴゴロド公ウラジーミル1世がギリシャ正教に改宗し、クリミアの都市ケルソネソス(古代ギリシャの植民都市だった)で洗礼を受けた。この洗礼以降、「ロシア人とウクライナ人はひとつの民であり、一体である」と、昨年、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は宣言している。

800年にわたり繰り返し支配されてきたウクライナ

 しかし過去800年近く、ウクライナは互いに競い合ういくつもの勢力によって、繰り返し支配されてきた。東からやってきたモンゴル軍がキエフ公国を滅ぼしたのは13世紀のことだ。この侵攻が、モスクワを中心とする地方政権がロシア帝国にまで発展する発端となった。

 16世紀にはポーランドとリトアニアの軍隊が西から侵入する。17世紀、ポーランド・リトアニア共和国と帝政ロシアとの戦争により、ドニエプル川より東側とキエフがロシア皇帝の支配下に置かれた。東側は「左岸ウクライナ」と呼ばれ、ドニエプル川より西の「右岸」はポーランドが支配した。

 それから1世紀以上たってポーランドが弱体化すると、1793年から95年にかけて右岸ウクライナ(西部)がロシア帝国に併合された。その後、「ロシア化」と呼ばれる政策により、ウクライナ語の使用と学習が禁止され、人々はロシア正教への改宗を迫られた。

ソ連時代に何百万もの人々が飢え死にに

 ウクライナは20世紀にも大きな苦難に見舞われている。1917年のロシア革命の後、多くの国と同じく、ウクライナも激しい内戦に突入したが、1922年にはソビエト連邦の構成国となった。

 1930年代初頭、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、農民を集団農場に参加させるためにあえて飢饉を引き起こし、何百万人ものウクライナ人を飢餓と死に追いやった。その後、ウクライナ東部の人口を埋め合わせるために、スターリンはロシア人をはじめ多くのソビエト市民を移住させた。その多くは、ウクライナ語を話さず、地域にほとんど縁のない者たちだった。

 こうした歴史的な経緯が、長きにわたる断絶を生み出した。ウクライナ東部は西部よりもずっと早い時期からロシア支配下にあったため、東部の人々はロシアとの結び付きが強く、ロシア寄りの指導者を支持する傾向にある。

 対してウクライナ西部は、ポーランドやオーストリアなど、欧州列強の支配下に何世紀にもわたって置かれていた事情などから、西部の人々は西欧寄りの政治家を支持する傾向にある。東部にはロシア語を話す正教会の信者が、西部各地にはウクライナ語を話すカトリック信者が多い。

東西の大きな分断の背景にあるもの

 1991年のソビエト連邦の崩壊により、ウクライナは独立国となった。しかし、国を団結させるのは容易なことではなかった。その理由のひとつは、「ウクライナ東部では、西部ほど愛国意識が強くない」ことだと、元駐ウクライナ米大使のスティーブン・パイファー氏は言う。

民主主義と資本主義への移行は、痛みと混乱を伴うものであり、東部を中心に多くのウクライナ人が、以前の比較的安定した時代のほうがよかったという気持ちを抱いていた。

「こうしたさまざまな要因を経てできた最大の分断は、ロシア帝国とソビエトによる支配を好意的にとらえている人たちと、これを悲劇として見る人たちとの間にあるものです」と、米シンクタンク大西洋評議会の元研究員で、ウクライナに詳しいエイドリアン・カラトニツキー氏は言う。この亀裂が顕在化したのが新欧米派の政権を誕生させた2004年のオレンジ革命であり、何千人ものウクライナ人がヨーロッパとの統合拡大を支持してデモ行進を行った。

環境の特性を示した地図を見れば、ステップと呼ばれる肥沃な農地を有するウクライナ南部・東部地域と、森林の多い北部・西部地域との間にも隔たりがあることがわかると語るのは、米ハーバード大学の歴史学教授で、同大学ウクライナ研究所所長のセリー・プロキー氏だ。

氏によると、地図に示されたステップと森林の境界は、東部と西部の間を斜めに走るラインとなっており、これは2004年と2010年のウクライナ大統領選挙における政治状況を表す地図と「驚くほど似通って」いるという。

クリミアは2014年にロシアに占拠・併合され、その後まもなくウクライナ東部のドンバス地方で分離独立派が蜂起し、結果として、ロシアの支援を受けたルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国の建国が宣言された。現在、ロシア軍は再び、この土地の波乱に満ちた歴史を象徴する断層線であるウクライナの国境に集結している。

・・・・・・新説“ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ”に続く・・・

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森のなかえ

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