ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月07日<ⰧⰊⰧ
☆★ チェ・ゲバラがライフワークであった『ゲバラ日記』を書き上げる。「我が生涯に一片の悔いなし」として翌日ボリビア軍の捕虜となり、翌々日に処刑される(1967年)。☆★ 巨人軍とその親会社となる新聞社が結託し、パ・リーグ切っての強豪の八百長をスクープ(1969年=黒い霧事件)。パ・リーグの人気を失墜させることに成功し、巨人軍によるプロ野球支配を盤石のものとする。☆★ クイズ番組や歌番組の司会者だった久米宏がニュースステーションでアンカーマンに(1985年)。日本の報道番組の価値下落の第一歩。
本日記載附録(ブログ)
焼夷弾は、焼夷剤(発火性の薬剤)を装填した、爆弾・砲弾・銃弾である。目標を爆発で破壊するのではなく、攻撃対象に着火させて焼き払うために使用する。簡易で手作りの火炎瓶(火焔瓶)は焼夷弾の一種である。
第一次ソ芬戦争時のソ連の外務大臣V.・モロトフは「爆撃ではなく、フィンランド人民にパンなどを投下している」と言い張った。その発言に対し、フィンランド国民はソ連の小型焼夷弾60発を収納するコンテナを"モロトフのパン籠"と呼ぶ事で応じ、兵は"お返し"として対戦車用の火炎瓶を「モロトフに捧げるカクテル」と呼んだ。
この逸話から火炎瓶の代名詞として"モロトフ・カクテル"という呼称が用いられ、弱者の武器となった。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
ウクライナ市民が自作する「弱者の武器=モロトフ・カクテル=」でロシア侵攻に抗戦……
◇◆ 「今すべき唯一の重要なこと」と地元教師、その歴史を振り返る =1/5= ◆◇
「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは
ロシア軍を撃退するため、ウクライナのいたるところで、市民たちが大量のモロトフ・カクテルを作っている。
西部の都市リビウでは学生や芸術家たちが、かつて深夜のダンスに興じた場所で製作にいそしむ。首都キエフの郊外では元経済専門家が、作り方を検索して自分で作ったと記者に説明している。東部のドニプロの街では女性たちが屋外に集まり、この一時しのぎの武器を作っている。
「今すべき唯一の重要なことだと思います」と、地元の教師は話す。
モロトフ・カクテルとは、いわゆる火炎瓶のことだ。高度な技術を持つ敵に対抗する身近な武器として、100年近く使われ続けている。投石よりもはるかに強力だが、作るのはそう難しくない。必要なのは、ガラス瓶と可燃性の材料くらいだ。
火炎瓶が初めて使われたのは、1930年代のスペイン内戦とされる。右派の反乱軍(ナショナリスト派)が、左派の人民戦線政府(共和国派)の戦車に対抗したときだ。ある英国の准将は、この手製の爆弾で9両の戦車が破壊されたのを目の当たりにして驚いた。やがて火炎瓶は、人民戦線軍側でも使われるようになった。
その火炎瓶が、なぜモロトフ・カクテルと呼ばれるようになったのか。それには、フィンランドの人々が関係している。1939年にソ連軍がフィンランドを攻撃したとき、スターリン政権の外務大臣だったビャチェスラフ・ミハイロビッチ・モロトフは、軍用機がフィンランドに運んでいるのは、爆弾ではなく食料だと言い張った。
そこでフィンランド人は爆弾を「モロトフのパンかご」と呼び、それに合う飲みもの、すなわちカクテルをお返しした。ウオツカを製造していたフィンランドの工場は、すでに即席の火炎瓶を大量生産する準備を整えており、フィンランドはソ連の装甲部隊に対して大きな戦果をあげることができた。その結果、「モロトフ・カクテル」という名前は一躍世界に広まったのだ。
第二次世界大戦中、英国はこのモロトフ・カクテルを、ナチスの侵攻に対する重要な防御策とした。かつてスペイン内戦の際に国際旅団として戦闘に加わったトム・ウィントリンガムは、1940年に英国の人気雑誌「Picture Post」でモロトフ・カクテルを紹介し、「レシピ」と使い方を解説した。
「戦車が近づいてくるのを待て。十分に近くまで来たら、仲間が、ガソリンをしみこませた布の端に火をつける。燃え上がったら、すぐに瓶と布を投げるのだ(遠くには投げられない)。戦車のすぐ前に落ちるように投げよう。コツは、布が履帯に巻きこまれるか、車軸に巻き付くようにすることだ。瓶は割れるが、ガソリンが十分布にしみこんでいれば、勢いよく燃え上がる。すると、車輪のゴムが燃え、エンジンや乗員にも火が回る」
この記事は、次のように締めくくられている。「モロトフ・カクテルで遊んではいけない。非常に危険である」
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料:モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail) ⨂⨁
火炎瓶(かえんびん)は、瓶(主に硝子製)にガソリン・灯油などの可燃性の液体を充填した、簡易な焼夷弾の一種である。冬戦争における故事から、「モロトフ・カクテル(Molotov Cocktail)」とも呼ばれる。本格的に使用された初の戦争は1936年からのスペイン内戦とされる。
1938年のノモンハン事件の際には日本軍によって即席の対戦車兵器として使用され、サイダー瓶を使った急造火炎瓶を肉薄して戦車に投げつけ対抗した。ソ連赤軍の主力であったBT戦車はガソリンエンジンだった上、車体の塗装に使われたペンキに引火性があり、火炎瓶で攻撃すると容易に動力部まで引火し炎上した。しかし肉薄攻撃を強いられるために日本側の損害も大きく、赤軍が戦車を無塗装にするなどの対策を取り始めると戦果は落ちていった。
そもそもソ連側の損害は主に九四式三十七粍砲によるものであり、火炎瓶は擱座した戦車に止めを差す形で使用されることが多かった。日本軍の使用する地雷や手榴弾、火炎瓶は梯形隊形で攻撃するソ連戦車には大きな脅威とはならなかったとされる。ノモンハンの戦訓から、以後赤軍の開発する戦車は軽油で動くディーゼルエンジン化され、のちの第二次世界大戦に役立つことになる。
同年末のフィンランド冬戦争の際にもフィンランド国防軍が対戦車兵器として使用した。当時のソ連外相モロトフは、国際連盟でソ連の無差別爆撃について追及された際に「資本主義に搾取されるフィンランド人民のためにソ連赤軍はパンを投下している」と強弁したことがあった。このため、ソ連軍のRRAB-3収束焼夷弾が「モロトフのパン籠」と揶揄された。そして、火炎瓶は「パン籠」に対するフィンランド人民からのお礼のカクテル(ウォッカの蒸留所で生産された)という意味で「モロトフ・カクテル」と名づけられ、以降火炎瓶の代名詞となった。
第二次世界大戦におけるドイツ国防軍では、ガラス容器を2重(卵型の容器の中に試験管型の容器が入っている)にして、割れると2種類の液体が混合して発火する化学反応型の火炎瓶兵器を制式使用していた。イギリスでは民兵組織のホーム・ガード専用装備として通常の火炎瓶の他、「76号SIP手榴弾(No. 76 SIP Grenade) 」を600万個ほど製造していた。
手榴弾という名目であるが、白リンとガソリンが封入されており、瓶が割れて白リンが空気に触れると自然発火し、ガソリンが燃える火炎瓶であった。ホーム・ガードでは志願者向けの教育ビデオで火炎瓶の効果的な投擲方法を解説していた。
ハンガリー動乱では抵抗側の火炎瓶によってソ連軍の戦車が400両ほど破壊された。
国家が戦争状態にあるときは、国民に火炎瓶を作り、抵抗するよう呼びかけることがある。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ウクライナのメディアが番組で火炎瓶の作り方と火炎瓶で抵抗するよう呼びかける放送がされた。ビールの蒸留所では火炎瓶製造に乗り出し、軍や警察も装備する他、市民が投擲の訓練を行うなどしている。
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