ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月05日<ⰧⰊⰧ
☆★ フランスでオバタリアンがヴェルサイユ宮殿に乗り込んで、ルイ16世やらマリー・アントワネットやらをパリに引き摺り出す(1789年=フランス革命: ヴェルサイユ行進)。☆★ 自分とこの大陸のこと以外は表向き無関心を決め込んでいたフランクリン・ルーズヴェルト、枢軸国を隔離せねばと公言(1937年=隔離演説)。☆★ 愛と平和を説くカルト教団「ビートルズ」が結成される(1962年=『ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー』)。&so、ジェームズ・ボンドの第1作『007 ドクター・ノオ』がイギリスで公開。豊国では」磯野家の団らん風景がブラウン管に初めて映し出される(1969年)」。
本日記載附録(ブログ)
カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。
ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。
防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =9/9= ◆◇
== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==
さらにトンプソン氏によると、この構造物は、長い歳月の間に少なくとも3つの段階を経て造られたという。放射性炭素年代測定の結果、最も古い段階ができたのは西暦1000年頃で、この建物に住んでいた家系がスペイン人の到着より500年以上前から栄えていたことを示唆している。
ありえない王国
米ウェストフロリダ大学の考古学者で、長年カルーサ族について研究してきたジョン・ワース氏によると、マウンド1は以前からカルーサ族の族長の住居があったのではないかと考えられていたという。
「スペイン人はカルーサ族の首都の様子についてリアルに描写しています。トンプソン氏らは、この構造物がスペイン人の記録にある王の住居と同じものであることを、しっかりした証拠によって示したのです」
米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学教授リン・ギャンブル氏によると、スペイン人はカルーサ族について説明する際に「王国」という言葉を用いていたが、人類学者たちは長い間、主として漁労によって食料を得ていた狩猟採集民の社会が王国の定義に当てはまるはずがないと考えていたという。
学者たちは最近になってようやく、複雑な社会に関する自分たちの考え方が時代遅れになっている可能性に気づきはじめた。「カルーサ族に関する今回の研究は、私たちをそうした思い込みから解き放ってくれるものです」とギャンブル氏は言う。
「研究チームは巨大な住居を丹念に調べ、長い年月にわたって使用されていたことを示しました。この場所で王国が形成されたことについて、説得力ある証拠を示したのです」
トンプソン氏はほかにも、スペイン人とカルーサ族との関係についてより詳しく教えてくれそうな場所を発掘している。メネンデスらが築いた砦はその1つだ。砦は短期間しか使用されなかったが、かなり大規模で、イエズス会が今日の米国にあたる地域で最初に展開した布教活動「サン・アントン・デ・カルロス」の拠点となった。
トンプソン氏のチームはつい最近も、マウンドキーで2番目に高い場所で、スペイン人が建設した構造物の場所をいくつか確認することができた。今後の発掘調査が待ち遠しい。
次回は“「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは”に続く・・・
参考資料:先住民と入植者の協力示す壁画を発見、カリブの島 =後節=
先住民の絵と十字架やラテン語が共存、出会った16世紀頃の様子物語る
見つかったモチーフは、人間、動物、幾何学模様など既に分類が済んでいるものだけでも数千種類に上り、その多様さはカリブ海の島々の中でも類を見ない。幅が数メートルに及ぶものもあり、多くが別の絵の上に重なるようにして描かれている。これは、人々が何度も洞窟へやってきたことを示している。
絵のスタイル、関連する陶器、そして暗い洞窟内を照らすために用いられたたいまつの放射性炭素年代測定の結果を総合すると、これらの壁画がスペイン人到来前に描かれたものであることが分かっている。中には12世紀にさかのぼるものもあった。
スペイン人到来で新たな壁画が
先住民は、岩の多いこの辺境の地に5000年以上暮らしてきたが、スペイン人たちがやってきてから1世紀で姿を消した。1494年に島を訪れたクリストファー・コロンブスは、カリブ海の地図を作成し、その中にモナ島を書き加えた。地図にはヨーロッパと新大陸を結ぶ海路が記され、後に多くの船がここを行き交うことになる。モナ島の洞窟壁画にも、この頃に興味深い変化が起きている。
ある洞窟から、先住民の壁画とともに初期のヨーロッパからの移住者が書き残したと思われるしるしも発見されたのだ。当時、プエルトリコとイスパニョーラ島に置かれていたスペインの要塞からこの島を訪れた人々である。
スペイン人の名前、ラテン語やスペイン語で書かれた文、イエスの名の略記、キリスト教の十字架が数多く、先の尖った道具で岩肌に刻まれていた。
洞窟に「生きた証」残す
歴史的観点から最も価値があるのは、驚くほど現代的な落書きである。人の名前や日付など、多くは16世紀半ばごろのものだ。自分たちの存在を後世に残そうとして、洞窟の壁に刻み付けたのだろう。
中でも「フランシスコ・アレグレ」という名は、明らかにヨーロッパ人のものであると分かる。歴史的文献から、この人物は1530年代に西インド諸島へやってきたスペイン人であることが判明した。プエルトリコのサン・フアンに拠点を置き、モナ島を含む王室所有の土地を管理する職務に任じられた人物だ。
彼の署名と洞窟で見つかった文字がよく似ていることから、アレグレ自身がこの洞窟を訪れて文字を刻んだものと思われる。自分の生きた証を残したいという欲求は、はるか昔から人間が抱いてきたものだ。彼も、洞窟の壁を前に同じような衝動に駆られたに違いない。
「ここに見られるのは、ふたつの全く異なる芸術の共存です」と、クーパー氏は語る。「後から描かれたものは、明らかにヨーロッパ人によるものです。先住民たちの芸術を見て、応答するように自分たちも文字や絵を刻み付けたのでしょう」
ヨーロッパ人と先住民の壁画が同じ場所に並んでいること、戦いの場面を描いた壁画がないこと、そしてヨーロッパ人が先住民の案内なしにこの洞窟を見つけることはできなかったであろうことを考え合わせると、スペイン人による新大陸征服という聞き慣れた話とは全く違ったイメージが浮かび上がってくる。
ここにあるのは、ふたつの異なる背景を持った人々が互いを知り、アイディアを共有し、そうして生まれた新たな文化のつながりがどんな未来を意味するのかを探ろうとしていた時代の名残である。
文=A. R. Williams/訳=ルーバー荒井ハンナ
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= Lost City of Cahokia | Animated Documentary | Myth Stories =
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