ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月03日<ⰧⰊⰧ
☆★ 遭難のモールス信号・・・― ― ― ・・・としてせんないが おおさわぎする そうどう 略して「SOS」を制定(1906年)。これが、日本が世界に誇る涼宮ハルヒシリーズ誕生の遠因となる。☆★ 東京オリンピック開会を前に日本武道の聖地が竣功(1964年)。しかし、半世紀以上経った今ではミュージシャンの聖地と化すことに。本年は非難轟轟の自民党の聖地と化す。☆★ ドイツの東半分とベルリンの東半分を支配していたソビエトの犬がご臨終(1990年)。ドイツがやっと再度一つになったものの、東西を隔てた様々な格差は統一から40年近く経っても悩みの種。
本日記載附録(ブログ)
カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。
ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。
防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =7/9= ◆◇
== 大都市・カホキアの衰退はなぜ? 「過剰な伐採」説を否定 ==
1566年2月、玉座に腰掛けていたアメリカ先住民カルーサ族の王カーラスは、奇妙な人々の行列が自分の住居に向かってくるのを見た。
スペイン人の提督ペドロ・メネンデス・デ・アビレスは、200人の兵士、太鼓や笛の奏者、歌い踊る道化師を集め、銃の火縄に火をつけ、聖書の文字を掲げながら、フロリダの人工島マウンドキーを登っていった。当時、南フロリダの広い範囲を統治していたカーラス王を威圧するためだ。
このほど考古学者たちは、スペイン人とカーラス王の会見が開かれた建物の痕跡を初めて発見した。王の住居の復元図は、それがスペイン人の宣教師たちが残した記録どおり、2000人を収容できる目をみはるような建物だったことを示している。
考古学の学術誌『Journal of Anthropological Archaeology』オンライン版で6月1日に報告された王の住居の発見は、カルーサ族の暮らしについて新たな洞察をもたらすものだ。カルーサ族は、人類学の通説に反して、農業を基盤とせずに複雑な社会を形成したことで知られる。
論文の共著者で、米フロリダ自然史博物館の南フロリダ考古学・民族誌学の学芸員であるウィリアム・マーカート氏は、「カルーサ族のように漁労・採集・狩猟生活を送り、複雑な社会を形成した例は非常に珍しく、以前から魅力的な研究対象でした」と言う。
海辺の強大な王国
かつて、複雑な社会をもつ集団は、ほとんどが農業を基礎にしていた。人口と労働力を維持できるだけの食料を生産するためだ。しかしカルーサ族を支えていたのは、沿岸、河口、マングローブでの、ボラ、サメ、ウミガメ、貝などの漁だった(つい最近も、フロリダ沿岸で7000年前のアメリカ先住民の埋葬地が発見されている)。
彼らは主に海産物を食べ、不足分はシカや鳥などで補っていた。野生の植物も採集したが、小さな家庭菜園でチリペッパー、パパイヤ、ヒョウタンを育てる以外の畑作をすることはなかった。
それにもかかわらず、16世紀のカルーサ族の文化は、聖職者、軍隊、網の目のように張りめぐらされた運河、広がる通商路、各地の村に住む2万人以上から貢物を集める王など、農耕社会に近い特徴を備えていた。マウンドキーはカルーサ族の人々がカキとハマグリの貝殻を積み上げて作った巨大な人工島で、いちばん高い場所には王の立派な住居があった。
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: 北米最大の先史都市カホキアの謎に新事実 ⨂⨁
ミシシッピ川の大洪水との連動が最新の研究で明らかに
現在の米国イリノイ州でかつて栄えた先史都市カホキア。高さ30メートルにもなる謎の遺跡「モンクス・マウンド」を築くほど繁栄したものの、大集落はおよそ300年で姿を消した。早すぎる滅亡の背景には一体何があったのか、長い間研究者らの論争の的になっていた。しかし、最新の調査で行われた堆積物コア分析によって、カホキアの盛衰がミシシッピ川の大洪水と連動していたことが明らかになった。]
考古学データによると、最初に農耕集落がこの地に現れたのは西暦400年頃のことだった。西暦1050年頃には、カホキアは隆盛期を迎え、人口数万人規模の政治的、文化的中心地となっていた。ところが、そのわずか3世紀後の1350年には、カホキアは姿を消してしまう。
彼らがどのような運命をたどったのか。その謎を探るべく、ウィスコンシン大学マディソン校の地理学者サミュエル・ムニョス氏とジャック・ウィリアムズ氏率いる研究チームは、カホキアがあった場所に程近い三日月湖ホースシューレイクで堆積物サンプルを採集、分析した。その結果、この地域は過去2000年の間に8回の洪水に見舞われていたことが分かった。
研究者らは、洪水の規模と頻度の変化と、考古学的な証拠から得られたカホキアの全歴史における人口、土地利用、定住集落の変遷のタイミングが一致していることを発見した。
洪水が長いこと起こらなかった期間が西暦600年前後から始まり、その頃から、ミシシッピ川の氾濫原より外側の高い場所にあった定住集落が低い氾濫原に移動してきた。そこでは農耕が集中して行われ、人口も増加し始めた。やがて、カホキアは米国先史時代最大の都市として栄えていった。
では、なぜ都市は滅亡してしまったのだろうか。これまで、干ばつ、資源の過剰搾取、人間同士の争いなどが原因に挙げられてきたが、ホースシュー湖の堆積物を分析した過去の調査では、西暦1200年ごろにこの地域で大規模な洪水があったらしきことが報告されていた。
今回、ムニョス氏の研究チームは、ホースシュー湖からさらに190キロ下流域にある別の三日月湖の堆積物も分析したところ、ここでも同時期の壊滅的な洪水の跡が確認された。ミシシッピ川の水位は10メートル以上も上昇し、それから150年以内にカホキアが完全にうち棄てられる要因となったものだ。
この研究には、ナショナル ジオグラフィック協会のヤング・エクスプローラーズ・グラントの資金も提供されている。ムニョス氏は、こうした発見を聞いて、考古学者たちが今後、先史時代の洪水の記録を使うようになってくれればと願っている。「考古地理学を従来の考古学に取り入れることはお互いにとって望ましいことです」
文=Kristin Romey/訳=ルーバー荒井ハンナ
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= Cahokia Mounds: Ancient Metropolis (1994) Documentary =
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