ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年10月01日<ⰧⰊⰧ
☆★ 中国・北京は天安門にて、毛沢東が中国の支配者であることを内外に宣言(1949年)。しかし、蒋介石の一党は台湾始め沖合の島々で相変わらず悪あがきを続け、チベットは未だダライ・ラマの統治下にあるが……翌年の1950年 - 毛沢東暗殺陰謀事件発生は公然の㊙。☆★ 五輪目当てで東海道新幹線が開業(1964年)。前評判に反して結構売れたため、調子に乗って4年後に特急の大盤振る舞いをやらかす。&so、その丁度33年後には、五輪目当てで北陸新幹線が長野経由で開業(1997年)。二匹目のドジョウが当たると思ったのだろうか?☆★ 恐怖の消費税の税率がついに2ケタに。しかし一部の商品やサービスは税率が据え置かれて、消費者ばかりか売り手も経理担当者もフリーランスも右を左の大騒ぎ(2019年)。
本日記載附録(ブログ)
カホキア (Cahokia) は、アメリカ先住民が築いた大遺跡。現在のアメリカ合衆国中西部、東部および南東部に広まり、ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)の大遺跡。1450年頃から衰退に向かうが、人口過密と伝染病が原因と考えられている。
ミシシッピ文化(Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設するために積み上げた人工の丘)を構築したインディアン文化であり、地域により様々な形態をなした。その人々は持っていた技術からみてヨーロッパの銅器時代に比定される。マウンドの機能はミシシッピ文化共通の特徴でもあるが、基本的には神殿と考えられる。
防御用と推定される柵で囲まれた遺跡の中心部分には、「中央広場」を囲んで20基ほどのマウンドがある。そのうち最大のものはモンクス=マウンド (Monk's Mound) で、底面積の大きさでは、エジプトのピラミッドやテオティワカンの太陽のピラミッドを上回る。遺跡の中心部を囲んで北側、東側、西側にも広場を囲むようにしてマウンドが築かれ、マウンド数は合計120基ほどである。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ アネリカ先住民が築いた大遺跡・カホキア(仁徳陵古墳の長辺60%、高さは同相)の謎 =5/9= ◆◇
調査したマウンドがあったのは川のそばの低地で、過剰伐採説が正しければ洪水が起きていたはずの場所だ。しかし、マウンドがあった場所の土壌で洪水による堆積物は見つからず、カホキアの繁栄期を通じて安定していたことがわかった。
その結果を受けて、ランキン氏はこの過剰伐採説だけでなく、カホキアが環境の変化によって滅亡したという前提そのものを疑うようになった。資源の枯渇と環境の悪化によって社会が滅びるという考え方は、ここ半世紀ほどで説得力のある説として頻繁に使われるようになり、ときに環境および生態系の破壊を意味する造語「エコサイド」とも呼ばれている。
エコサイド説がよく用いられるのは、私たちは過去の文明が環境の変化で滅亡したことを目撃し、現在の文明でも起きつつあると恐れているからだ。実際にそうであったかどうかにはよらず、過去の問題をすべて環境危機によるものと見てしまう傾向があると、ランキン氏は言う。
「ヨーロッパ人がやってくる前に北米に住んでいた人々は、放牧や集約的な耕作はしていませんでした。私たちは、彼らの農業システムを西洋的の視点で見てしまいます。しかし、考慮しなければならないのは、先住民的な視点や慣習なのです」
自然の資源をむさぼる文化だったのか?
人類学では、カホキアはミシシッピ文化に分類される。ミシシッピ文化とは、紀元800年から1500年ごろにかけて、現在の米国の南東部に広がっていた農業文化だ。トウモロコシなどの作物を育て、土を積み上げたマウンドを作り、ある時点でカホキアに人が集まるようになった。政治、宗教、経済といった理由が考えられるものの、町が誕生した理由は明らかではない。だが、彼らが個人の利益のために自然の資源をむさぼっていたとは考えにくい。
カホキア人がたくさんの木を切ったのは事実だろう。砦と考えられているものを建てるために、たくさんの木が使われていた。しかしヨーロッパ系の米国人たちのように、持続不可能となるような伐採をしていたとは限らない。
「バイソンに何が起こったかを考えてみてください」とランキン氏は言う。平原で暮らしていた北米の先住民たちは、ウシ科の動物バイソンを持続可能な程度に狩っていた。しかし、「ヨーロッパ人がやってきて、すべて撃ち殺してしまいました。できる限りのものを搾取するというのが、西洋の資源に対する考え方です。先住民の文化は、それとはまったく違うのです」
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: ミシシッピ文化、カホキアは洪水で衰退(1/2) ⨂⨁
約1000年前、現在のイリノイ州セントルイス近郊にあたるミシシッピ川の氾濫原に、北アメリカ先住民の人々が住む大集落が忽然と現れた。今ではカホキアという名で知られるこの集落は、誕生から300年後には、ほぼ廃墟と化した。カホキアの突然の登場とその後の急激な衰退の理由は、北米大陸の先史時代に関する最大の謎の1つとなっている。しかし新た研究により、集落の衰退の原因について、1つの可能性が浮上してきた。それは大洪水の発生だ。
これはウィスコンシン大学マディソン校の博士課程に在籍する学生、サミュエル・E・ムニョス(Samuel E. Munoz)氏が率いる研究チームの発表で明らかになったものだ。同チームは、カホキアの近くにある湖の堆積物コアを分析し、西暦1200年前後にこの地域で破壊的な規模の洪水が発生したことを明らかにした。これはちょうど、カホキアの集落が、人口と繁栄の両面でピークにあった時期だ。
ムニョス氏のチームは、約1700年前にミシシッピ川の本流から切り離された三日月湖であるホースシュー湖の堆積物コアを分析した。その結果、はるか昔の大洪水によりもたらされたとみられる、厚さ19センチのシルト質粘土の層が見つかった。
このときに発生した洪水の水位が、カホキアの中心部にある最大のマウンドを浸水させるほどの高さに達したとは考えにくい。このマウンドは今ではモンクス・マウンドと呼ばれ、現代の建物に換算すると10階相当(約30メートル)の高さを持つ。しかし、これほど大規模な洪水であれば、農地や居住エリアに壊滅的な打撃を与えたはずであり、これにより最盛期には1万5000人に達したとみられる住民が、この地に住み続けられなくなった可能性もある。
この大洪水が、カホキアの衰退と放棄の引き金になったのか、それとも衰退を加速する一要素にすぎなかったのかという問題は、今後の研究に委ねられる。しかし、これまでにはっきりしていることがある。洪水の発生から150年以内に、メキシコより北の北米地域では最大の先史集落だったカホキアはゴーストタウンと化し、その後ヨーロッパからやってきた入植者が、無人の巨大マウンド群を見て首をひねることになるのだ。
大洪水の発生は、カホキアの来歴に関する新たな問題提起だが、今回の研究チームが提示したその他のデータは、カホキア、そしてこの遺跡が属するミシシッピ文化の歴史に関する考古学界の既存の説とも整合性のあるものだ。 ・・・・・・明日に続く
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= Illinois Adventure #1308 "Cahokia Mounds" =
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