ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年08月09日<ⰧⰊⰧ
☆★ イタリアはピサの大聖堂で鐘楼となる塔が着工(1173年)、しかし建築最中から傾き始め地盤の軟弱さを計算に入れない欠陥建築だったことが判明することに。☆★ テニアン島を飛び立ったB29がコクラに核物質を大喰らいしたデブを投下しようとするが、曇っていたので標的をナガサキのミツビシに変更。でも外れて天主堂の近くで炸裂した(1945年)。☆★ 冷戦時代に一強を誇ったアメポチ政党が、結成後38年で初めて野党に転落(1993年=細川護熙内閣が発足。38年ぶりの非自民政権)。
本日記載附録(ブログ)
ガイウス・ユリウス・カエサルがルビコン川を渡る“逆境を跳ね返した決断”
「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」と独言し
「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」と公言、歴史を開く
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ 死に方を問われ、「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と…=1/3= ◆◇
「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。
「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。ルビコン自体は、大した障害ではない。アペニン山脈に水源を発して東に流れ下るイタリアの小さな川で、リミニとチェゼーナの間を通ってアドリア海に注ぐ。渡るのは簡単で、それは紀元前49年1月10日も同じだった。そのとき、ユリウス・カエサルは配下の一個軍団を従えてこの川の北岸に立ち、次の一手を決めあぐねているように見えた。
カエサルが迫られていた決断は、どうやって対岸に渡るかということには関係なかった。すぐそばに橋が架かっていたからだ。彼を立ち止まらせ、思案に暮れさせていたのは、この川が象徴するものだった。ルビコン川は、当時カエサルが統治を任されていたローマの属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)と、ローマおよびその周辺の直轄領から成るイタリア本土とを隔てる境界線だったのである。将軍が軍を率いてイタリア本土に入ることは、ローマの法律で明確に禁じられていた。
その禁を、今まさにカエサルは破ろうとしているのであり、彼自身、それがどういう結果を招くか重々承知していた。ルビコン川を渡ることは、カエサル本人はもちろん、彼につき従う者も死罪に問われることを意味していた。従って、もし軍団を率いて川を渡るならば、かつての盟友で今や不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となったポンペイウスが指揮を執る軍勢を打ち破ってローマを掌握するしかなかった。それができなければ、刑死は免れない。自らの決断の重さにしばらく思いを巡らしてから、カエサルはルビコン川を渡る。ローマ内戦の火蓋が切って落とされた。
それまでの経緯
ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年、かつての富と権勢の大半を失った古い貴族の家柄に生まれた。将軍として名を成し、一族に昔日の栄華を取り戻すことを早くから目標に掲げていたようだ。紀元前60年までには、傑出した武将としてローマ軍で頭角を現し、幾多の戦功によって政治家としても脚光を浴びるようになっていた。さらに野望を推し進めるため、カエサルは自分と同じように軍人として成功し、政治家に転身したポンペイウスおよびマルクス・リキニウス・クラッススと協定を結ぶ。この同盟関係は、のちに第1回三頭政治と呼ばれるようになった。
放置すれば最大のライバルとなっていたであろう2人と手を結んだかいもあって、カエサルはローマの執政官(コンスル)に選出される。これは、共和政ローマで選挙によって選ばれる公職で最高位に当たる。この選挙においては贈収賄や不正が横行し、またカエサルが執政官の任期1年を務める間、その手法に対する疑念が駆け巡った。
しかし、執政官には在任中、たとえ罪を犯しても告発されない特権が与えられている。また、任期満了が近づくと、ここでもポンペイウスとクラッススの助力によって、カエサルには3つの属州の総督権が認められた。すなわち、ガリア・キサルピナ、ガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリアの意で、今のフランス南部を指す)、それにアドリア海を挟んだ東岸のイリュリクムである。属州総督には執政官同様の特権が与えられていたので、カエサルは政敵がどうにかして彼に受けさせようとしていた訴追を免れ続けた。
・・・・・・・・・明日に続く・・・
⨂⨁ 参考資料: 皇帝に成り損ねたカエサル =1/8= ⨂⨁
古代ローマを語る上で必ず登場するのがカエサルです。軍人としても政治家としても才能を発揮し、古代ローマをまとめ上げ、やがて来たるローマ帝政の基礎を築いた。しかしその志半ばにして暗殺されるという悲劇により、人生の幕を下ろしたのです。そんなカエサルは偉人らしく女性にモテまくったということですが、いったいどんなところが魅力的だったのか。エジプトの女王クレオパトラのロマンスなど、数々の色恋と戦いに彩られた彼の人生・・・・・・・・。
カエサルの正式名は、ラテン語でガイウス・ユリウス・カエサル。ジュリアス・シーザーと呼ぶこともるが、これは英語読みの場合。また、カエサルという名称は、後にローマ帝国の君主号となった。曰く カエサルの後継者・オクタヴィアヌスもカエサルと言う名を持ち、後継ぎにこの名を付けという。やがて皇帝そのものを示す言葉となる。ちなにに、この影響はヨーロッパ各国にまで及び、ドイツ語で皇帝を意味する「Kaiser(カイザー)」やロシア語の「Tsar(ツァーリ)」はすべてカエサルに由来している。
名門だが没落貴族の息子
前100年、カエサルは同じ名を持つ父親と、数々の高官を輩出した家柄の母との間に生まれた。父はローマの属州総督を務めており、母の先祖の高官は執政官(コンスル)であったため、かなりの名門の貴族(パトリキ)です。
因みに、「属州」とは、ローマと同盟関係の都市以外でローマの領土となった所で、時代によって違うがローマ市民と属州民などで権利や身分の差が生まれてた。また、執政官(コンスル)は共和政だった古代ローマにおける最高職で、政治と軍事両方における最高責任者でした。とはいっても独裁を防ぐために、定員は2名。そして貴族(パトリキ)とは、古代ローマ建国の際に功績のあった人物に連なる家柄の人々のことで、社会的な身分として非常に高い地位でした。
こうした要素が重なったカエサルの家は、まさに名門中の名門といってもいい。しかし、彼が生まれた頃には没落し、彼の幼少時の記録すらほとんど残っていない。加えて、当時のローマは戦乱続きでもあり、内情がとても不安定だった。 ・・・・・・・明日に続く・・・
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= カエサル戦記#5:スパルタクスの決断【内乱の一世紀】 =
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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