◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ ◎
○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○
◇◆ 「ヴァレンヌ事件」の顛末; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =5/7= ◇◆
実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日、国王一家はテュイルリー宮殿を後にした。 その日に変わった真夜中に、ルイ16世と王妃、王子と王女は、それぞれ変装してばらばらに分かれて宮殿を抜けだした。 予定では午前0時の出発のはずだったが、国王の監視役であったラファイエットの予定外の長居によって、結局、国王が宮殿を出たのは午前1時を過ぎていた。
一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすまして、近衛士官マルデンの手引きで、幌付き2頭立ての馬車に乗って誰にも止められることなく宮殿を出ていった。 王子と王女は仮面舞踏会にいくと言い含められていたので驚いたようである。 一方、護衛を務めるショワズールとゴグラーは、この10時間前に猟騎兵を連れてすでにパリを出ていた。
旅券には書かれた一行の人数は6人で、コルフ侯爵夫人の役には王子たちの保母であったトゥルゼール公爵夫人がなり、その子供には王太子ルイ=シャルルと王女マリー・テレーズが、旅行介添人が王妹エリザベート、デュランという名前の従僕にルイ16世が、マダム・ロッシュという名前の侍女にマリー・アントワネットが扮していた。
馬車の御者は変装したフェルセンであった。 まずクリシー街のサリヴァン夫人の邸宅に着くと、ここで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えた。 さらに2人の従者が車後に乗った。 フェルセンは自ら手綱を操って、回り道しながら2台の馬車は北に向かった。 すでに午前2時半を過ぎていた。
フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行き、パリ郊外まで来たが、ルイ16世がフェルセンの同行を拒否したため別れることとなった。 ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったという。 いかし、この段階に至って、ルイ16世はフェルセンを拒絶したのである。 逃亡する国王一家にフェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だけだった。 一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていたのである。
その頃、ショワズールは、40名の猟騎兵とともにシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェールの橋でずっと待っていたが、待てども待てども国王の馬車は到着しなかった。 何事かと訝る住民の目に晒されて、だんだん不安になったショワズールは、部隊を分散させ、街道から隠すことにした。 国王の馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せ、ゆっくりとした速度で進んでいた。
国王一行がシャロンに到着したのは午後4時だった。 扮装した国王一行は安心しきっており、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。 すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。 ポン・ド・ソルヴェールで国王は最初の護衛に会えると思っていたが、ショワズールの愚かな判断によって行き違いになった。 次のサント=ムヌウの町でも別の竜騎兵部隊が待っている予定であったので、国王はさらに2時間進んでこちらと遭遇することを期待した。
しかしサント=ムヌウでも、不審な部隊を警戒した地元の国民衛兵隊300名が武装して集まってきたので、衝突を恐れた指揮官のダンドワン大尉は解散を命じて、竜騎兵たちの多くは市民と一緒に酔っぱらっていた。 しかしダンドワン大尉は何とか国王の馬車を見つけ、彼は近寄って会釈した。 ところが運悪く、それを夕涼みに出ていた宿駅長のジャン=バプティスト・ドルーエ が見ていた。 彼は大尉や竜騎兵たちが馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。 そこにシャロンから王室一家が通過したという噂が流れてきたので、ハッとしたドルーエは、アッシニア紙幣の肖像を見て一行の中にいたのがルイ16世であったと確信して、間道を抜けて先回りした。
クレルモン・エン・アルゴンヌの町で国王はようやく護衛の竜騎兵部隊と合流できたが、国王の逃亡はすでにこの町ではニュースになって騒ぎになっていた。 町の当局者は、一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券をもつ国王の馬車を止める権限がなかったので、行かせることにした。 しかし明らかに不審な部隊の随行は禁止した。 再び護衛と引き離された国王の馬車がヴァレンヌに到着した時、ドルーエらは先に到着して、大勢の群衆と共に待ち構えていた。
6月22日、国民議会の使者ロメーフが国王一家を拘留せよとの命令を持って現れた。 すべてが露見したが、ルイ16世はさらに時間稼ぎをしてブイエが救援するのを待とうと試みた。 国王は疲れているのでパリに立つまで2、3時間の休息が欲しいと言った。 ロメーフはラファイエットの副官で、内心では王党派であったのでこれを受け入れた。 しかしもう一人の使者のバイヨンが拒否し、「パリへ、パリへ」と群衆を煽った。
群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願するので、国王もついに観念し、しょうがなく国王一家は車中の人となった。 マリー・アントワネットは屈辱に唇を噛みしめていた。 その僅か半時後、ブイエ侯爵は部隊をつれてヴァレンヌの町の手前まで来て、国王がすでに屈服したと知らされた。 彼はそのまま踵を返して道を引き返し、国境を越えて亡命した。
一方で、同じ日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、同じ頃には無事にベルギーに到達していた。 プロヴァンス伯は、6月20日の夜に兄ルイ16世に会ったのが、今生の別れとなった。 彼は2年後の兄の死と前述の王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランスの摂政となる。
6月25日夕方7時、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。 議会を代表する護衛としてバルナーヴ、ペティヨン、モブールの3議員が途中で加わっていた。 道中の各地に「国王に礼を尽くすものは撲殺。国王に非難を加えるものは縛り首」との警告ビラが貼られた。 パリは国王一家を沈黙で持って迎えた。 以後の国王は「民衆にとっては裏切り者、革命にとっては玩具」となってしまった。 そして、マリー・アントワネットは、妹エリザベート宛ての遺書を書き残してギロチンで刑死する。 遺書の内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」であった。
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