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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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断頭台の露と消えた王妃 =35=

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◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  ◎

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =1/3= ◇◆

革命以前

ルイ17世/ルイ・シャルルは1785年3月27日フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男として誕生した。 出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。 姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズである。

第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。  しかし、フランスは絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。 短い幸せな宮廷生活では姉のマリー・テレーズと共にフランス革命後に養育係となったトゥルゼール侯爵夫人の娘ポーリーヌを慕い憧れた。 4歳の時に兄が病死し、ドーファンとなる。

幼年ながらも目鼻立ちは整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい顔立ちと、愛嬌もあり活発な性格で宮廷内の人々を魅了した。 マリー・アントワネットは「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いだ。 だが、神経質で慣れない物音に怯えること、軽率な面があり、嘘をつくつもりはないが想像力により話に尾ひれをつける癖がある欠点をトゥルーゼル侯爵夫人充ての書簡に記載している。

フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで

1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。 パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。 新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。 しかし、国王一家は2年後の1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日にタンプル塔に幽閉された。 このときルイ=シャルルは6歳だった。

タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語、フランス文学、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。 数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いしたという。 この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした。 この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死しているが・・・・。

 1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。 1月28日、ドイツのヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。 しかしルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

恐怖政治下の監禁生活

恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。 その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。 以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。

同年の7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。 王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモンの元で過ごすことになった。 シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。 彼らはサンキュロットに見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。

そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。 やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。 また、シモンはルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。 暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。

偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通称取次人のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。 シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。 ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。 この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。 母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。 翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

マリー・アントワネットの処刑後、今度はエリザベートを処刑するための証拠を作ろうとした。 既にエベールらに洗脳されていたルイ17世は、かつて叔母が行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。 この頃ショーメットは、常にルイ17世と過ごしているシモンが王党派に買収されるのではないかと不安になり、シモンを厳しい監視下に置いた。 この待遇が面白くないシモンは、ルイ17世にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。 パリ・コミューンはシモンに圧力をかけ、1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻とともにタンプル塔から去った。 陰湿なシモンがルイ17世(ルイ・シャルル)の身辺から消えたのだが、次の後見人は指名されなかった。

 

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森のなかえ

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