〇◎ 未知の世界へ飛び込んでいく関野吉晴 ◎〇
= Webナショジオ_“北極探検 二つの物語”に転載・補講 =
☠ 関野吉晴の探求心はどこから来たのか ☠◇◆ 満身創痍のカヌーで最大に難所へ =前節= ◆◇
フィリピンと台湾の航行許可が無事に得られ、2011年5月11日、雲ひとつない空の下、3年目の航海をスタートした。
いよいよ両国をまたぐ最大の難所、ルソン海峡に挑む。いくつかの島を経由しながらの、およそ400キロの海峡横断だ。なかでも山場は2カ所ある。バブヤン島からバタン諸島までの88キロと、ヤミ島から蘭嶼島までのバシー海峡120キロだ。
この海峡は黒潮の通り道になっている。黒潮に乗れば難なく航海できそうに思えるのだが、そうはいかない。干満によって太平洋と南シナ海の間で動く潮流がある。この潮流は東から西に流れることもあれば、逆の流れになることもある。それらを計算に入れて航海しなければならなかった。
だが、バブヤン島を出航する時から手間取った。帆を上げる時に注意を怠って、ブーム(帆桁、帆をぴんと張っている竹で出来た横棒)を折ってしまったのだ。アクシデントが起こった時にどのように対処するかが大事。すぐに用意してあった2メートルほどの副木を当ててロープでしばって事なきを得た。骨折の治療と同じだ。
傷だらけの縄文号
実のところ、3年目を迎えた私たちのカヌー縄文号は、すでに満身創痍だった。
そもそも製作時から、船体の前方と左後方に大きな穴が開いていた。そのため、別の木材でその穴を塞ぎ(埋め木)、木釘とレパ(漆喰)で固定した。強力な接着剤や釘など今の技術を使えば安全性が増すが、それらは使わないことに決めていた。
2年目の航海を終えてから3年目のスタートまで、カヌーを10カ月ほど現地に保管していたのだが、その間にカヌーはかなり傷んでいた。特に埋め木と本体の接触している部分が4、5cm腐りかけていたので、時間をかけて修復した。そんな不安を抱える船体だったので、水深の浅いところを航行する際には、サンゴ礁や岩にぶつからないよう厳重に注意した。
船体だけではない。「ラヌ」というヤシの若葉の繊維を織って手造りした帆は濡れに弱く、濡れた状態で風が吹くとすぐに破れた。3年目ともなると、帆はもはや継ぎはぎだらけになっていた。ロープも手造り品だったが、いつもほつれ、切れ、擦れていた。スペアのロープを備えつつ、常に修復をしながら使っていた。
アウトリガーも問題を抱えていた。フロートの部分が直径およそ20cmの太い竹でできているが、長時間日光に晒されるので、ひび割れがひどい。すると、ひび割れから水が溜まり、せっかくの浮力が落ちてしまう。ダマルという樹脂で補強したが、それでも細い割れ目から海水が入っていくので、竹のそれぞれの節に直径1cmほどの穴を2個ずつ開け、栓を差し込んだ。水が溜まるごとに栓を取り、海水を抜けるようにしたのだ。海水を抜くたび、硫化水素のような強い刺激臭がした。
ともかく折れる、切れる、擦り切れる、曲がる、穴が開く、腐るのが当たり前のカヌーで、そのたびに補修して航海を続けた。 一方、傷だらけではあったが、手造りの古代カヌーならではの柔軟性もあった。
=補講・資料=
蘭嶼島とタオ族
蘭嶼(らんしょ、Ponso no Tao)は台湾本島の南東沖にある周囲40kmの孤島で、かつて紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれており、別称: Botel Tobago。
蘭嶼は台湾本島の南東の太平洋上、緑島の南方にある、面積が48.4 km²の火山島である。バシー海峡を隔ててフィリピン最北部のバタン諸島と隣接しており、バタン諸島でもっとも北にあるマヴディス島との距離は99 kmである。島内最高峰は紅頭山((548m))である。島内の大部分は山地で海岸線は入り組んでいるが、沿岸部に若干の平地がある。全島にわたって熱帯雨林が広がっている。
台湾原住民のひとつで、フィリピン・バタン諸島より移り住んだとされるタオ族4,000人程が暮らしている。主要な産業はトビウオ類などの漁業とタオ族の伝統文化や奇岩などの自然を生かした観光業。民宿が各部落にある。自給的なタロイモやサツマイモの栽培、養豚、養鶏が行われているほか、山羊が放牧されている。蘭嶼小耳猪という小型の黒豚の発祥地。
タオ(Tao、Tau、達悟族)は、台湾原住民のなかで唯一島嶠部に居住する民族集団。居住地域は台湾本島の南東沖の孤島蘭嶼である。人口は4000人程。島内に6つの村落を構成する。
自称のタオはタオ語で人を意味する。ヤミ族(Yami、雅美族)とも呼ばれる。これは日本の文化人類学の草分けの一人である鳥居龍蔵によって命名された名称である。
毎年4月から7月にかけて飛魚祭が行われるなど、漁労や造船にかかわる風習が多く見られる。特にチヌリクランと呼ばれる漁労用のボートを作る場合には伝統的な意匠が施され、完成時には進水祭(ミチ・チヌリクラン)が行われる。この祭礼時には男たちは独特の威嚇的な表情と身振りを行う。
伝統的には男性は編み笠と褌、独特のベストを、女性は腰巻を着用していたが、現在は祭礼の時などに見られるのみである。また、円錐形の金属製の兜と、悪魔避けの刀も正式な場では必須である。武装は、集落ごとにトビウオ漁の水域争いや土地争いで闘争が多かったことの名残でもある。
もともと定住よりは移住型で、台湾本島の海岸に建築物を作り一定期間移住し、次の海岸に移住する。台湾政府も管理不能となっている。女性の数が男性よりも少ないため、一妻多夫の制度があった。
・・・・・後節につづく・・・・・
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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