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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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“難民の父”/ フラム号で北極点へ=04=

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○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

☠ 流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_☠

◇◆ ナンセンのフラム号遠征計画  ◆◇

  ナンセンの北極点到達へのアイディアは、アメリカの船USSジャネットが先年・1881年にシベリアの北海岸沖で沈没し、3年後にグリーンランド南西海岸沖で見つかったことから得られた。この難破船は明らかに北極海を渡って来ており、北極点そのものを通過した可能性があった。このことや、グリーンランド海岸で回収したほかのゴミから、気象学者者のヘンリク・モーンは極点を漂流する学説を考えだし、それがナンセンをして、特別に設計した船ならば、叢氷の中に閉じ込められたまま難破船ジャネットと同じ経路を辿り、北極点の近くに達することが出来ると考えだった。

 ナンセンには、悲惨な結末に終わった過去の探検を研究、その敗北を分析し参考にして、新たな可能性を模索したいという思いに夢中になった。1879年にシベリア沖で氷に閉じ込められたジャネット号の遭難事件。この米国の探検船はそのまま21カ月にわたり漂流したが、やがて氷の圧力でつぶされ、1881年6月13日、海に沈んだ事故。 そして3年後、船の遺留品が、沈没現場から西に数千キロも離れたグリーンランドに漂着した事実。

  遺留品に関する記事を読んだナンセンは、北極海を東から西に向かって流れる強い潮流に乗れば、北極点に到達できるか、少なくとも近くを通過できるのではないかと考えた。 こうして北極探検の構想が芽生えたのだ。「実に奇抜な考えでした」と、ナンセンの伝記を書いたローランド・ハントフォードは語る。 「自然の力に着目して、それに逆らうのではなく、利用しようとしたわけです」

  ナンセンは丸い船腹など長期間氷の圧力に耐えられるようにデザインした特徴を持つ船の建造とその航海だった。1890年2月、ナンセンはオスロ(当時はクリスチャニアと呼ばれていた)で開催されたノルウェー地理学会の会合で演説した。西から北極点に接近した多くの遠征の失敗について注意を集めた後、ジャネットの破片の発見と共に、グリーンランド海岸でシベリアやアラスカのものと識別された流木などのゴミの発見から示唆されるものを検討した結論の発表である。

ナンセンは「これらの物を総合すると、現在の潮流が、シベリアの北極海からグリーンランド東海岸まで」行く間におそらく北極点を横切っているという「結論に導かれる」と語り、今なすべきことは、「北極のあちら側で潮流に乗り、北へ流れ、そのおかげで、これまでは流れに逆らった者が全て達することが出来なかったそれらの領域を通過できる」と話した。

ナンセンの計画では、小さく、堅牢で、操作性の良い船を必要とし、帆とエンジンで動き、20人の人員が5年間生存できる燃料と食料を運ぶことが出来るものとした。この船はノボシビルスク諸島までジャネット号の経路を辿り、概略ジャネットが沈んだ位置まで行って、氷の状態が良ければ、前に進めるだけ氷の中に入っていく」ものとしていた。その後は氷と共に漂流して北極点に向かい、最後はグリーンランドとスピッツベルゲンの間の海に出るものと考えた。船が沈没する可能性についてナンセンはほとんど有り得ないと見ていたが、その場合は浮氷の上でキャンプを張り、安全な方向に流れていくに任せることにした。ナンセンは、「もしジャネット遠征が十分な食料を持っておれば、また残骸が見つかった流氷の上に留まっておれば、その結果は疑いも無く全く異なる結果になっていたであろう」と述べてた。

  ナンセンの計画が公知の事実となったときに、「ニューヨークタイムズ」が熱心となり、「北極点を通って北極海を横切る比較的短く直線的な経路がある可能性が強い、自然自体がそれを横切る通信手段を提供している」と見なしていた。しかし、最も経験を積んだ極圏探検家は否定的な見方をしていた。アメリカの探検家アドルファス・グリーリーはその計画を「自滅する筋の通らない計画」と呼んだ。その助手であるデイビッド・ブレナード大尉は、「かつて考えられた中でも最も工夫の無い計画の1つ」と呼び、それは災害のうちに終わると予告した。

  ジョン・フランクリン卿の消えた遠征隊の捜索にあたったベテランのアレン・ヤング卿は、船が氷の圧力に耐えられるように建造できるとは考えなかった。「もし氷が船を潰すに違いないふくらみが無いとすれば、どんな材料でその船はできていることだろう」と言っていた。1839年から1843年にジェイムズ・クラーク・ロスと共に南洋を航海したジョセフ・フッカー卿も同じ意見であり、そのリスクを冒す価値は無いと考えた。しかし、同じくらい経験を積んだレオポルド・マクリントック卿はナンセンの計画を「王立地理学会の認識下にもたらされた最も冒険的な計画」だと言った。

  スウェーデンの慈善事業家オスカル・ディクソンは1878年から1879年にアドルフ・エリク・ノルデンショルド男爵のほ北東航路制覇を資金面で援助した者だったが、ナンセンの計画にかなり心を動かされ、資金提供を申し出た。しかし、ノルウェーの国粋主義が盛り上がり、スウェーデンによるノールウェーの統合がノルウェーのマスコミに敵意を生み出した。ナンセンはノルウェーの支持者のみに頼ることとし、スエーデンのディクソンが申し出は辞退した。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ = オム・ホンギル & ラルフ・ドゥイモビッツ

オム・ホンギル : 世界9番目の14サミッターで韓国の英雄。 14座を完登すると「上がり」とばかりに引退してしまう登山家もいるが、ローツェ・シャールやヤルン・カンなど独立峰としては認められていない衛星峰までも含めた完全登頂に拘り遠征を続けた生粋のヒマラヤニスト。 ローツェ・シャールには4回の遠征でようやく陥落させるという執念を見せた。

 数々の栄光を手にしたホンギルだが、2004年、愛弟子にして右腕ともいえる登山家バク・ムテクをはじめ3人の仲間を失う。生存が絶望視された彼らの葬儀が開かれたものの、遺体は見つからず。そこでホンギルは幾多の死線を乗り越えた仲間たちを再び集め、“ヒューマン遠征隊”を結成。3人が遭難したデスゾーンと呼ばれる危険な8,750m地点に向かうことを決意し、エベレストに眠る仲間とその帰りを待つ家族のため、“山岳史上最も過酷”なエベレスト遠征に挑む。77日間のドラマを描いた映画『ヒマラヤ 地上8,000メートルの絆』の主人公である。

 ラルフ・ドゥイモビッツ : 国際山岳ガイド。 アミカル・アルパイン社オーナー。 ヒマラヤの複数の山の入山許可をまとめて取り、実力があり気の合う仲間でそれぞれチームを組み登頂する、という非営利公募隊のスタイルを確立。 彼を慕う実力派登山家は多く、日本でも小西浩文、竹内洋岳らが何度かチームを組んでいる。ドイツ人初の14座登頂者。 奥さんはあのゲルリンデ・カルテンブルンナー。 8000m峰全14座無酸素登頂 / アイガー北壁登攀生中継

動画資料 : 北西航路 (Franklin's Legend) : クリック➡

https://youtu.be/t33xWvlgr8U

動画資料 :『ヒマラヤ~地上8,000メートルの絆~』: クリック➡

https://youtu.be/ovC4B9Z-g-Y

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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