○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =4/5= ◇◆北極点到達への難関・クラック(開水面)の問題に行く前に、橇をひく犬について、ここで取りあげておくべきかもしれない。 一万二千キロの旅でも、橇をひく犬についてはずっと悩まされつづけた。 だから植村の公刊された冒険の記録及びその元になっている日記を読むと、犬橇で旅をする限り、犬の悩みはついてまわると私などは思っていた。 あの旅でも犬を途中で補強して、大幅に編成を変えたこともある。
それにしてもこの北極点単独行では、さまざまな事情で強い犬を手に入れることができなかった。 さまざまな事情の筆頭は同時期に日大隊の大がかりなチームが、北極点をめざした、ということがある。 しかも日大隊がグリーンランドなどであつめた114頭の犬が空輸中の事故で全部死亡した。 その結果、もう一度犬の買い付けが行なわれ、値段が高騰したという事実がある。
要するに植村は何頭かを除いてほんとうに良い犬を手にすることができず、最初17頭で出発した後、行動の途中で何度か犬を補強せざるを得なくなった。
そうはしたものの、なかなか思うような犬のチームができなかったのである。 そのうえ、雌犬はリーダー犬のクロ1頭と思っていたところ、なんとシロと名づけた犬が雌だったことが後からわかって、このシロが行動中に出産するというハプニングまであった。 シロをテントの片隅に入れ、仔を産ませたのはおめでたいことではあったけれど、よけいな手数ともいえることだった。
結局、北極点到達まで、まじめに橇をひいたのは7頭ぐらいで、他の犬たちは食べるだけ食べて橇の動きにぶら下がっていたようなもの、と植村は報告している。 にもかかわらず、3月28日あたりでようやく乱氷帯を抜け、橇は距離をかせぐようになった。 1日、20キロから多いときは40キロ進んだ。 そうなってからの、後半戦の問題は、3番目に挙げた、クラック(開水面)の出現である。
氷の上を進む。 いつの間にか流氷帯のはずれに出ていて、目の前に黒々とした開水面が横たわっている。 また、テントを張っていた氷が裂けながら動いていて、目が覚めて驚くこともある。 北極点は海水上の一点であり、それをめざして海水上の氷の上を進むのだから、氷の動きにまきこまれるのは十分に予想がつくことだが、私のようなシロウトには悪夢のようなものとしか思われない。
《進退きわまった。 孤島に取り残される。 大きな氷の動きにまきこまれる。 死の危険がキナくさくにおった。 氷島すれすれに流れてくる高さ七、八メートルもの大氷山が、何につまずいたのか重心を失って大音響とともに海中に横倒しとなり、それがまた海中から頭をもたげてくる。 (中略)……黒い北極海が口をあける。 凄惨な光景だった。 映画のスローモーションを見るような非現実的な光景だった。 私はうろたえ、なす術がなかった。》
それでも植村は冷静さをとり戻す。 流れてきた氷のブロックをとらえ、思い切ってブロックの橋を渡る。 旧氷のなかに入り、旧氷上にようやくテントを張る。 北極点が近づき、気温がマイナス20度と上昇するにつれて、この間水面に行く手をはばまれ、進路を微妙に変更させられる。 そういう危険を乗り越えての、56日目の北極点到達だった。
4月26日、まだ北極点の100キロほど手前に、植村はいる。 植村はアラート基地との交信で、日大隊がこの日中に北極点に到達するのを知る。 たまたま同時期に北極点をめざした日大隊について触れておかなければならない。
日大隊と自分は、方法も目的も違っている。 自分の北極点単独行は断じてレースであってはならない。 植村はきっぱりとそう考えていた。 日大隊と出発前に顔を合わせたし(日大隊はエルズミア島ヘクラ岬が出発点)、出発もほぼ同時期になったが、競争意識にわずらわされることはなかったのは事実だ、と書いている。
にもかかわらず、である。 日大隊が先に北極点に到達するのを知ったとき、「口惜しさが、思いがけず、不意に襲ってきた」。 なぜなのかは自分でもよくわからない。 しかし、ただ、口惜しい。 一日中、「口惜しいな、口惜しいな」と、呪文みたいに呟きつづけた。
ほぼ同時に出発した人びとが、目的地に先に到着した。 口惜しい、という感情が湧くのはごく自然のことかもしれない。そこまでは端から見ていても、推察の範囲内にある。 口惜しいなんて思うのは愚かしいよ、と植村を批判する気にはなれない。
=補講・資料=
クリス・ボニントン(Sir Christian John Storey Bonington、1934年8月6日- )は、英国の登山家。 生涯でヒマラヤに19回遠征。 遠征隊長として、イギリス隊のエベレスト南西壁初登攀、アンナプルナ南壁初登攀を成功に導いた=前記・ドゥーガル・ハストン参照=:。
ボニントンは16歳でクライミングを始めた。 ロンドンのユニバーシティ・カレッジとサンドハースト王立陸軍士官学校で学び、1956年に英国戦車連隊に配属された。 北ドイツで3年間過ごしたあと、陸軍野外学校で登山指導員として2年間過ごした。 その間、1958年にプティ・ドリュ南西岩稜のイギリス人初登攀、1961年にモンブラン・フレネイ中央岩稜の初登攀に成功した。 1960年にはイギリス・インド・ネパール陸軍合同隊遠征に参加し、アンナプルナ2峰(7937m)の初登頂に成功した。 1961年に陸軍を除隊しユニリーバに就職、マーガリン部門で働いたが9ヶ月で辞職し、プロの登山家・探検家・ジャーナリストとなった=この背景には、親友の遭難があり 後年 70歳を超してから彼の未亡人と再婚する=。
1970年からは自ら遠征隊を組織する。 同年、アンナプルナ1峰南壁をめざす遠征隊を編成し、隊員2人が南壁の初登頂に成功。 当時ヒマラヤの大岩壁はまだ登られておらず、高所クライミングにおける最先端の登攀だった。 これによりヒマラヤ「壁の時代」の幕が切って落とされる。 2年後にはエベレスト南西壁遠征隊を組織するが敗退=遭難事故が発生=。 しかし1975年に再度、遠征隊を編成し、エベレスト南西壁の初登攀を成功させる。
ボニントンは1974年に、諸々の登山の功績に対して、英国・王立地理学会から金メダルを贈られた。 また、ボニントンは1976年に、エベレスト南西壁初登頂を導いた功績を認められ大英帝国勲章(CBE)を受賞した。 1996年には彼のスポーツへの貢献のためナイト(Knight Bachelor)に叙された。 2010年にはアウトワード・バウンド協会への貢献を称えられてロイヤル・ヴィクトリア勲章(CVO)を授与された。
動画資料: THE CLIMBERS - Chris Bonington =クリック➡
動画資料: Mount Everest, "Hard way", 1975 =クリック➡=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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