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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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現代の探検家《植村直己》 =026

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○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 現地から届いた手紙 =1/6= ◇◆

植村直己は、「書くことは死ぬほどきらいだ」といいつづけた。会った当初はともかくとして、1972年から73年のグリーンランド滞在あたりから、この植村の口癖のようなセリフは額面通りには受けとれないと、私は考えるようになった。彼が帰国してから、ほぼ11カ月分の精密な滞在日記を見せられて、書くことがほんとうにきらいならばこうはいかないだろうと思ったのである。

 それから冒険行が重なるにつれて、彼の書くことへの執念をまざまざと見ることになった。どんなときでも、彼は日記をつけつづけた。と同時に、1972~3年のグリーンランド滞在、74年末からの『北極圏一万二千キロ』(文春文庫)の旅などでは、きびしい冒険行のなかで寸暇を見つけて手紙をくれた。

「書くことが死ぬほどきらい」な植村は、じつに筆まめな男だった。なぜ彼が「死ぬほどきらい」を口癖のようにいったのかは、別の機会に考えてみることにするが、この章では植村が現地から届けてくれた手紙のいくつかを紹介してみたい。行動しているときの植村の息づかいを感じとっていただきたいと思うからである。

 72年からのグリーンランド滞在は、エスキモーと共同生活をし、犬橇の操縦法を自分のものにすることにあった。73年の2月に、その成果をためすべく、犬橇で3000キロの旅をする。滞在しているシオラパルクから西海岸に沿って南下し、ウパナビックまで。さらにそこからシオラパルクまでひき返すという、単独での犬橇旅行だ。

 このグリーンランド滞在の記録である『極北に駆ける』(文春文庫)の末尾近くに、次のような一節がある。

 目的地のウパナビックに着いたら、郵便局に行って手紙を書こうと思っていたが、帰りのことを思うと30分でももったいない。だから橇の上で便箋を取り出し、6通ばかり手紙を書いた。マイナス33度のなか、橇のうえで手紙を書くなど、めったに体験できることではない云々。

 その6通のうちの1通が、次に掲げる私宛の手紙だった。

《2月4日シオラパルク出発した北西部グリーンランド沿岸氷の犬橇旅、3月21日、今日、ウパナビックへ45日ぶり、到着です。1300km~1400km予想外のlongと、複雑な地形に長時間を費やしました。
太陽は昇り始めたとはいえ、1年のうち1番低い気温の時期、マイナス30℃~40℃の中、12頭の犬と共に無事片道ウパナビックの旅を無事終えられたことは今後の犬橇に自信をつけました。

チューレ地域の最南の村サビシビックからウパナビック地区の最北の村ゴットソアの間の450km~500kmにわたるメルビル・ベイの無人の海氷の南下には食糧をきらしたり凍傷にやられたり、氷山にとじ込められたり、深雪に動かなくなったりとても厳しい旅でした。それでも一頭の犬も殺すことなく無事通過できました。

今、3月21日、ウパナビックへあと40kmの地点、犬橇を走らせ手袋をはめ、橇の上でこの手紙を書いていますので読みづらいと思いますが御許し下さい。ウパナビック近辺海氷が薄く、海水が現れたりして橇を海氷にもぐらせたりしていますので危険でウパナビックの町の滞在は許されません。この手紙を出した後すぐまた北上シオラパルクの旅につきます。

2月3月の気温の低い時期から明ける4月にはいく分か往路のような狭いさしせまった心境から脱し、犬橇を楽しみ、シオラパルクへ4月中には帰りつくことができると思います。

=補講・資料=

シェルパ(Sherpa)は、ネパールの小数民族のひとつ。 2001年時点での人口は15万4622人で、ネパール総人口約2950万人(2008年)の0.5%を占める。

主な居住地は、エヴェレスト南麓に面したネパール東部サガルマタ県ソングルプ郡クンプ地方(エベレスト地方)で、他にインドのダージリン、シツキム・アルナーチャル・プラデーシュ州、ブータン・ディンキェ県ニャラム県ダム鎮にも住む。

シェルパの居住地は、世界的な観光地であり、多くの一般観光客を相手に、1年を通してホテルなどの観光業が一大産業になっている。 また、選ばれたごく少数のシェルパによるヒマラヤ登山支援も世界的に知られる。

シェルパの祖先はその名が示すように、もともとはチベット東部地域に居住していたが、17世紀から18世紀にその地を離れ、南に横たわるヒマラヤ山脈を越えて、ネパールに移住してきたとされる。この地は寒冷な高地であり本格的な農業は難しく、19世紀までは主に放牧や他民族との交易で生活していた。

20世紀に入り外国人のヒマラヤ登山が始まると、シェルパは高地に順応した身体を買われて荷物運び(ポーター)として雇われるようになった。その後、登山技術を磨いた彼らは案内人(ガイド)としても雇われるようになり、20世紀後半以降活発になったヒマラヤ登山では、彼ら無しではヒマラヤ登山は成立しないと言われるほど重要な存在となっている。

シェルパを伴うヒマラヤ登山の過去においては、登山隊内のシェルパのリーダーはサーダと呼ばれ、遠征してきた諸外国の登山隊員もその意見を尊重していたが、1990年代以降、商業ベースの公募隊の登山が活発になると、お客さんと化した登山家側から消耗品扱いされるようになった。

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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