○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 始まりと終わり・・・・・・ =4/6= ◇◆
「南極の地図です」と彼はいい、畳の上にそれを広げた。白い部分がやたら目につく、というより他にほとんど記号もないような地図だった。何をいいたいのか、私は一瞬不審に思いながら、白い地図に視線を落とした。そこで植村は、この南極大陸を単独で横断するのが自分の次の目標だ、と語りはじめた。
目の前にある地図は、ただ白い広がりのように見えた。なるほど、南極という氷の世界にふさわしい白さだなあと、私は奇妙なことに感心した。
そして、南極横断ということがどんなことなのか、イメージがわかないまま、ポツリポツリと質問した。誰も横断したことはないのか。スノーモービルでも使うのか。だいたいどこにどうやって上陸するのか。起点と終点をどこにするのか、等々。
植村は勢いこんで答えた。
南極を単独で横断する。距離にして3000キロ、単独ではまだ誰もやったことがない。走行の手段は犬橇を考えている。
そこらへんまでは決然たる口調だった。しかし、その他の点では漠然としていて、かつかなりあいまいだった。起点としては、アメリカとかアルゼンチンが設置している軍事基地を借りる。その一方が起点となれば、一方が終点となる。どっちにしろ、両国の軍隊の協力が必須条件になる。しかし、それはともかく、犬橇で横断することができれば、世界の注目を集める快挙になるはずだ。
そうだとしても、しかしあなたは犬橇の操縦ができるのか? と私は不思議な話を聞くという気分で訊ねる。彼は答える。
犬橇の操縦は、これからグリーンランド(あのデンマーク領の、極地の島!)に入って、エスキモーについて習う。それを習得した後、エスキモー犬と橇を南極に運び込み、食糧を確保して、行動を開始する。とはいっても、犬と自分の食糧全部を積んでいくことはとてもできないだろうから、アメリカかアルゼンチンの空軍に適宜投下によって補給してもらうしかない。
全体が茫漠とした話で、そのわりに部分的には奇妙に細部が具体的だった。
植村はこの話をした時点で、まだ南極大陸へ行ったことすらなかったのである。グリーンランドのほうは、3年前の夏、フランスから南米に渡る前にちょっとだけ足を踏み入れた経験があるが、犬橇については、ぼんやりした知識があるだけだった。
どこから見ても、これは途方もない話だった。最終目標は数多くのステップを登った先の、はるか彼方にある。
しかし、植村はそうは感じていないようすだった。彼は、自分の目標を語るのに「南極への夢」とか「南極横断の夢」とか、「夢」という言葉を使っていた。しかしそれは実現の可能性が小さいから夢という言葉にするのではなく、前方にある輝かしい目標という意味で夢という言葉が使われていた感じがあった。
植村は、南極単独横断について、この最初に語った段階から不思議なほど自信をもっていた。この構想を初めて打ち明けた日でも、説明がとつとつとして、ある部分ではしどろもどろであったのに、腹の底では絶対に実現できるという自信があるように思われた。その日だけのことではない。ほぼ1年後、植村は南極にあるアルゼンチンの基地ベルグラーノを初めて訪れて、氷雪の世界を目にするのだが、そこで克明に記された「南極偵察日記」でも、確信といっていいほどの自信があふれている。
=補講・資料=
南極到達と探検
様々な機関(例えばアメリカ国立科学財団、アメリカ航空宇宙局、カリフォルニア大学サンディエゴ校]などは、南極大陸上陸は3人の船長が率いた船によって成されたという。 1820年にエストニア出身のロシア帝国海軍船長のファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンと、アイルランド出身のイギリス海軍船長エドワード・ブランスフィールド、そしてアメリカ合衆国コネチカット州のアザラシ猟師ナサニエル・パーマーである。
ベリングスハウゼンは1820年1月27日に南極大陸を視認し、その3日後にブランスフィールドが上陸を果たした。 パーマーの上陸は同年11月である。 ボストーク号とミールヌイ号に乗るベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフの遠征では、南極大陸沿岸から32km以内まで到達し、そこで彼らは氷に閉ざされた地を目にした。 記録された最初の上陸は、1821年2月7日にアメリカ人アザラシ猟師ジョン・デイビスと言われる。
1840年1月22日、バレニー諸島西岸を発見した2日後、3年前からジュール・デュモン・デュルヴィルの冒険に同行していたメンバーらが、アデリーランドのジオデシー岬沖約4kmにあるデュムラン諸島内の最も標高が高い小島に上陸した。ここで彼らは鉱物や藻類および動物のサンプルを得た。
1839年12月には、アメリカ海軍が実施した1838-42年のアメリカ合衆国探検遠征隊の調査("the Wilkes Expedition"とも呼ばれる)がオーストラリアのシドニーから出発し、南氷洋を渡って翌年1月25日にはバレニー諸島西岸を発見した。当時、この場所はウィルクスランドと命名された。
探検家ジェイムズ・クラーク・ロスは、1841年に現在ロス海と呼ばれる海域を通過し、ロス島を発見した。 これらには彼の姓が冠された。 彼が淵に沿って航行した巨大な氷の壁はロス棚氷と呼ばれる。 エレバス山とテラー山は、それぞれ彼の一行が乗っていた2隻の船(エレバスとテラー)に由来する。 1853年1月26日にはマーケイター・クーパーが東南極に到達した。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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