◆マッカーサー司令官が幣原喜重郎首相に労働組合の結成奨励を指令。曰く、「五大改革」の指示。なれど、21世紀まで持ち越されるも未だ実現できない懸案事項となる(1945年)。 ◆配給食糧だけでは到底生きていけないことを、一裁判官が身を以て証明する(1947年=山口良忠判事が栄養失調で死亡)。 ◆延暦寺に賽銭泥棒しに来た不届き者が、下手を打って織田信長以来の焼き討ちをやらかす(1956年)。
◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第 11回= ◎ ◎
1921-1956期 追考 « カラー写真戦争ついに勃発! ライカ、コダック (1/5) »
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2012年5月16日 / (Web編集部)
世界恐慌にもかかわらず、ナショナル ジオグラフィック協会のおサイフにわりと余裕があった。 その余裕でもってさまざまな探検や調査を支援して、第一期黄金時代を迎えるのですが、並行して同じくナショジオが入れこんでいたもうひとつのテーマである「カラー写真」。 報道・記録・啓蒙に於いて、これほど適切な媒体はない。
この1930年代こそ「カラー写真革命」の時代でした。 そうそう、写真の革命といえば、みなさんは今年のはじめに飛び込んだイーストマン・コダックが破産した、というニュースを覚えているでしょうか。
コダックといったら、一時は世界最大のフィルムメーカーだった大企業。破産の原因はデジタル化の波に乗り遅れたことみたいです。厳しいという話は聞いていたものの、中の人は「破産」という文字を実際に目にしてとても驚きました。
コダック破産の原因はいわばデジタル写真革命です。
いまや写真といえばデジタルが当たり前。本来はカメラではない携帯やスマホですらきれいな写真が撮れて、いや、便利になったもんですネ。 でも、ちょっと前まではまだフィルムの時代でした。え、フィルムカメラを知らない? という人は中学生以下の子どもぐらいでしょう。私の世代にはおそらくいないはず……ですよね?
フィルムカメラからデジタルカメラへの移行が起きたのはごく最近のこと。それもほんの数年のうちでした。CIPA(カメラ映像機器工業会)によれば、デジカメの出荷数がフィルムカメラを上回ったのが2002年。そのわずか4年後にはフィルムカメラの時代はほぼ終わりを告げています。
私たちはこの革命をリアルタイムで目の当たりにしたわけです。革命を体験できるなんて、ラッキーかもしれないけど、中の人が持っているハイエンドの一眼レフのフィルムカメラなんかもう骨董品レベルですよ。そんなに古くはないのになあ……。
これと同じぐらいか、あるいは、それ以上の変化が実は1930年代にも起こっていました。 新しモノ好きの編集長だったギルバート・グロブナーが1920年に出版界初の「カラー写真研究所」を設立したことは前節の「世界初の水中カラー写真は命がけ」の回で紹介したとおりです。
その後、1924年には息子のメルビル・グロブナーをカラー写真研究所の補佐役にねじ込み(相変わらず「これでもか!」と強引です)、1927年の9月号からは毎号カラー写真を掲載してゆきます。
20年代は世界ではじめて商業的に成功したカラー写真の「オートクローム」の全盛期でした。1921年から1930年までの10年間に、オートクロームのカラー写真は『ナショナル ジオグラフィック』に計1818枚掲載されています(代表的な作品は次回から順次記載をご覧ください)。
当時のことをメルビルはこんなふうに振り返っています。 「父はカラー写真を信じて入れこみつづけ、ガンガン増やしていきました。周りのスタッフはみんなやりすぎだと思ってましたよ。でも、読者はカラー写真を気に入ったんです。リアルな写真、つまり、カラー写真を見たがりましたし、私たちはその期待に応えようと、あらん限りの方法を片っぱしから試したものです」
カラー写真はまだまだ発展途上でした。
オートクロームの撮影はそれこそ命がけというほどタイヘンでしたし、画質も不十分。カラー写真のスタンダードとなるにはほど遠く、世界のメーカーが新たな素材の開発にしのぎを削ります。 そして、30年代に入って新機軸が続々と登場。カラー写真は群雄割拠の戦国時代に突入します。
火ぶたを切ったのは1930年にイギリスで開発された「フィンレー」でした。 オートクロームより画質は落ちるものの、高感度がウリ。夏の晴天なら25分の1秒というシャッタースピードで撮影できたおかげで、メルビルは世界ではじめてカラー写真での空撮に成功します。
自由の女神を撮影し、『ナショナル ジオグラフィック』の1930年の9月号に掲載しました。とはいえ、飛行機のスピードでは無理だったので、乗ったのは飛行船でしたけどね。
シャッタースピードが速ければ、動いているものや、暗いところにもより対応できます。そのメリットのおかげで、フィンレーの割合は少しずつ増えてゆき、1930年の1年間の掲載枚数は、オートクロームが366枚でフィンレーは38枚だったのに対し、1935年にはそれぞれ72枚と231枚という具合に、フィンレーがオートクロームを逆転しました。
それでも、フィンレーは決定打ではありません。フィルムではなくガラス板だったため、オートクロームと同じように重かったですし、やはり画質があまりよくなかったのです。 その後、1936年にはフィルム形式の「アグファカラー」がドイツで開発されたり、翌37年にも同じくフィルム形式の「デュフェ」というシステムが登場したりしますが、いずれも決め手に欠けていました。
こんなふうに各社がしのぎを削るなか、しかし、ついにあるメーカーが目の覚めるような特大ホームランを放ちます。
が、なぜか『ナショナル ジオグラフィック』はすぐにはそのカラーフィルムを採用しませんでした。 その特大ホームランとは何なのか。なぜ『ナショナル ジオグラフィック』はすぐに採用しなかったのか。そして、採用にいたる物語がカメラの開発・発展の歴史なのです。
・・・・・・・・ 明日に続く・・・・・
次回は “ «カラー写真戦争ついに勃発! & ライカ、コダック » (2/5) “ に続く・・・・・
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