◆ とあるリア充が自分の連れ合いに飽き飽きしたので、偶然乗り合わせていた飛行機の乗客22人と一緒に爆発させる(1949年=カナディアン航空機爆破事件)。 ◆ 競輪場で大穴が出たことからエキサイトしたおっさん連中が大暴れして、競輪場があった村を崩壊に追いやる(1950年=鳴尾事件)。 ◆ 1991年 - SMAPが『Can't Stop!! -LOVING-』をリリースしメジャーデビュー。
◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 06/9 】 ◎ ◎
=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=06/9= | 2015/10/25 =
☆マロリーとアーヴィンの事故死☆
1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見した。その遺体はロープによって腰部が損傷していたことから、二人はロープで結び合ったまま滑落したのではないかと推測されたが、アーヴィンの遺体は未だに発見されていない。
マロリー達が持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。 しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。
なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。
マロリーとアーヴィンが失踪した約9年後の1933年、イギリス第四次エベレスト遠征隊が山麓に集結した。 隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン・ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー (Lawrence Wager)、 エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトン (Eric Shipton) もその中に含まれていた。
この遠征では高度8570mが最高で登頂はできなかったが、ウィン・ハリスが頂上近くで 1924年にマロリーとアーヴィンが登頂に挑戦したときのものであったアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。 また、同隊がはじめてエベレスト遠征にラジオを持参した遠征隊であった。
『エベレスト1933』のp.137にはハリスがピッケルを発見したとき、「それはボイラー板のような厚いスラブの上に、茶色で、平穏で、自由なままに転がっていた。」と述べたとしている。 さらにp.138で、ハリスは「この厚いスラブは別段、険しいものではなかったが、滑りやすく、脆い小石で覆われた危険な場所であった」と述べている。
1933年11月のアルペンジャーナルにおいて、隊長・ラットレッジは以下のように解説した。
「ハリスが対角線上に上へ横断し、約1時間登った後、マロリーかアーヴィンが使用していたにちがいないピッケルを発見した。 それは 北東やせ尾根の下、60ftの傾斜角30度の地点にそれは転がっていた」と「ここから推測できるのは、このピッケルがアクシデントの発生を示していることだ」と。
さらに「このピッケルの存在は、ここで滑落が発生して落ちたか、滑落した同僚を助けようとしてロープを引っ張るために両手を空けようとピッケルをここに置いた可能性を示している」と・・・・。
☆登頂の可能性☆
1999年、イギリスのBBCとアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー、アーヴィン捜索隊が、8、155m付近でマロリーの遺体を発見した。 この発見により、二つのことが明らかになった。
マロリーの腰にはロープで強く引っ張られたために生じたひどい出血が見られたこと。 これは何れかのポイントで2人がロープで結ばれたまま、滑落したことを意味しており、さらにその後、ロープが露出した岩に引っかかることにより、マロリーがその場所に横たわったことを意味している。
マロリーの遺体には北東稜から滑落した最近の例に見られるような激しい損傷が見られず、比較的損傷の少ない状態で「8200mスノーテラス」のすり鉢状の地形で発見された。 さらに、捜索隊が発見するより前にマロリーの遺体を発見したとされる中国の登山家王洪宝は、彼のピッケルが、滑落最終地点である遺体発見現場の近くに落ちているのを発見していた。 これにより、以前に発見されたピッケルがアーヴィンのものであることが判明した。
これらの調査結果から、いくらかの推測ではあるが、マロリー、アーヴィンがエベレスト登頂に成功した可能性を見出している。
第1に、マロリーは登頂成功後、山頂に妻の写真を置くため、写真を所持していたとマロリーの娘が常に言っていたこと。 この写真はマロリーの遺体が発見されたときに見つけることができなかった。遺体と衣服の保存状態が極めて良好であったため、写真を山頂に置いた可能性が存在する。 ただし、現在のところ、山頂で写真は発見されていない。
第2に、マロリーの遺体が発見されたとき、彼のスノーゴーグルが彼のポケット内に入っていたことであるが、それは彼が夜間に死亡した可能性を意味している。 さらにこれはマロリーとアーヴィンが登頂の為に努力した後、日没後に下山した可能性をも含んでいる。 彼らの出発時間と行動能力から判断すれば、彼らが山頂に到着し、それから下山している時に滑落したということも考えられる。
しかし、どちらも決定的な証拠とは成り得ていないが、これに決定的な具体的証拠を与えそうなものが1つだけ存在する、それはアーヴィンが所持していたと思われるカメラである。 しかし、アーヴィンの日記に記されていた2台のカメラのどちらも発見されていないが、多くの人が登山の際にこのどちらか1台を所持していたと推測している。
コダックの専門家は、カメラがフィルム入りで発見されれば、そのフィルムが白黒であり、急速冷凍されていることから、それを修復して、現像できる可能性があると述べた。
1975年、王洪宝が、8,100m付近でイギリス登山者の遺体を見たと報告した。 さらに1979年、日本登山隊がエベレスト北面より山頂に挑戦した時、その登攀隊長・長谷川良典も報告している。 しかし、その詳細を語る前に、王洪宝は雪崩で遭難死した。 しかし、王洪宝が遺体を見つけたとしている高度とほぼ同じ高度でマロリーの遺体が発見されたことから、王が発見したものがマロリーの遺体であるとする見解が根強い。
ただし、ある意見ではマロリーの遺体は顔を下に向けていたが、がれきに埋没していたと王洪宝が語っており、捜索隊が発見したときの状況と一致していないことを指摘している。 また、ある研究者は王洪宝がアーヴィンの遺体を発見したと考えており、王洪宝が、その遺体について、おそらく死因となったであろう、頭部の損傷について語っていたが、マロリーの遺体にはそのような損傷が見られなかったことを指摘している。
さらに、1999年、マロリーの遺体が発見された時、頭部はガレキに埋没しており、王洪宝が遺体の顔を見た上で、簡単な埋葬をするために、遺体を移動したと思われることも指摘されているが、これは全て推測に過ぎない。
マロリー、アーヴィンそして彼らが所持していたヴェスト・ポケット・コダックモデルBを見つけ出すために、1986年、1999年、2001年、2004年、2005年と捜索隊による捜索が行われたが、彼らの運命について新たな証拠が発見されることはなかった。 その推測と議論は「The Mystery of Mallory and Irvine(マロリーとアーヴィンの謎)」として、いまだに続いている。
Everest - Expedición allory-Irvine, 1924 ; https://youtu.be/xj7VeR9-5PM
2人を霊視したと言う人物の話によると、マロリーとアーヴィンはエベレスト頂上に達していた。 だが、到着時間は非常に遅く、彼らは疲労困憊していた。 闇が深まる中、2人は下山し始めるが、その最中にマロリーは滑落していった。 アーヴィンは1人、下山を続けたが、ほどなくして疲れ果てて座り込んでしまう。 そこにピッケルを置くと、酷寒と疲労でそのまま動けなくなった。
アーヴィンは薄れ行く意識の中、マロリーの幻を見た。 マロリーはこう言った。 「さあ、出発しよう」と。 そして、2人は旅立っていった。
標高8570メートルの地点でアーヴィンのピッケルが発見された。 そのピッケルは、何事も無かったかのようにただ、岩の上に乗っていた。 だが、そここそが2人の終焉の地であった。
☆調査隊が推測したマロリー・アーヴィンの遭難の様子☆=ブログ“叛骨の焔”より=
2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。 しかし、2人は疲労困憊し、酸素も切れていた。 それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを降り終える事に成功する。 そして、ファーストステップも降り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。
しかし、マロリーはランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせず、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを降りて行かざるを得ない。 2人は水分、酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。 それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目の前にした安心感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。 垂直な岸壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。
2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃を受けてロープは切れてしまう。 その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れて、そのまま急斜面を滑落していった。 アーヴィンはピッケルをその場に置き、直ちに親友を助けようとしたが、最早、どうしようもなかった。
マロリーの体は尚も加速をつけて暗黒の谷底へと下っていったが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませ、必死に体を停止させようとした。 手袋はすぐに裂け、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。 だが、その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い上がってしまう。 そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。 滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。 だが、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。
アーヴィンは暗闇の中、マロリーの名を必死に呼び続けていた。 だが、親友から、返事が返ってくる事はなかった。 アーヴィンは暗く沈んだ気持ちで、1人下山を始めるが、ほどなくして座り込んでしまう。 極限の疲労に加えて、滑落事故の際、アーヴィンも負傷したのかもしれない。 そして、酷寒が体を凍りつかせてゆく中、アーヴィンは短い22年の生涯を閉じた。 翌日、オデールが2人の捜索に向かった際、アーヴィンの遺体の側らを、気付かずに通り過ぎて行ったのかもしれない。
1993年 イギリスの第4次遠征隊は、標高8460m地点でアーヴィンのピッケルを発見している。 そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。 マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であった。
Mallory & Irvine: A Bloody Load for Climbing : https://youtu.be/CP9Rnz3tIko
・・・・・・・明日に続く・・・・・・
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