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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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今日(狂)の狂言 : 08月23日(金曜日) &旅と文化の足跡が野帳

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★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 ★

◆ 白虎隊が腐女子の妄想の種にされた末に、やおい穴をおっぴろげて滅亡(1868年)。&so、東京・竹橋で近衛兵が反乱したのは10年後。白虎隊の怨念が再燃したか…… ◆ 新潟の萬代橋の欄干が崩落。一万年どころか20年しか持たなかった(1948年=花火大会の見物客が殺到、死者11人)。 ◆ 伝説の名文句、『何のための前進守備だ!』が横浜スタジアムから全国に鳴り響く(2006年)。

◎ ◎ ゲルリンデ・カルテンブルンナーの記録 / K2への無酸素登頂 ◎ ◎

- - -  Webナショジオ & ja.wikipedia.org/wiki/ゲルリンデ・カルテンブルンナー - - -

=2011年、ゲルリンデはK2への無酸素登頂を成功させ、女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂者となった[3]。K2はエベレストより登頂が困難とされ、「非情の山」と呼ばれる。ここではゲルリンデらのパーティがK2無酸素登頂に成功するまでの過程を紹介する。=

イリクまで

登山隊のメンバーは6人。ゲルリンデのK2挑戦は今回が4回目だった。夫のラルフがリーダーを務めた。2011年6月19日、中国最西部のシルクロードの古都であるカシュガルを出発。ランドクルーザー3台と2t以上の装備品を満載したトラックが使用された。車列は、タクラマカン砂漠の西側に沿って南下し、崑崙山脈のチラグサルディ峠(海抜4950m)を越えた後に悪路をゆっくり進みチベット高原のマザルに到達した。

マザルはK2登山の中国側登山基地として利用されるが、一行はマザルよりさらに西に進み、キルギス人遊牧民の村であるイリク村に到着した。イリクには宿など無いので、族長が保有する建物の床に毛布を敷いて寝た。車が通行できるのはイリク村までで、ここで荷物をラクダに積み替えスルクワト川渓谷に向けて出発した。

アタックの準備

キャラバン隊は、登山家6人、ウイグル人連絡官、キルギス人のコック、道中の食料となる羊数頭、牛6頭、ロバ8頭、ラクダ40頭であった。アギール峠(4780m)を超えて、ガッシャーブルム氷河を源流とするシャクスガム川渓谷を渡る。この時期のシャクスガム川の流れは雪溶け水のために非常に早く、ラクダが流されてしまうなど、ベースキャンプに至る道のりで最大の難所となっている。

シャクスガム川渓谷を渡り、しばらく進むとやがてK2の姿が見えてくる。一行はここにベースキャンプを設営した。イリク村から徒歩で5日間の行程である。ベースキャンプからさらに15kmほど南に進んだ場所の氷河の上に前進キャンプ(4650m)を設営した。メンバーは登山ルートに沿って麓に第1キャンプ(5300m)-第3キャンプ(7250m)を開設し登頂の準備を行った。岩場に固定したロープの長さは2750mに達し、設置には6週間の時間を必要とした。

登頂開始

8月16日、アタックを開始。第1キャンプに到着すると、その夜だけで30cm以上の積雪が降り、遠方で雪崩が発生しているのが確認された。8月18日、降雪がやむのを待ってショルダー・デポキャンプ(6250m)を出発して第2キャンプ(6600m)に向かったが、新雪が多く雪が不安定であった。ラルフは雪崩の危険が高いと判断し、登頂を断念して単独で引き返した。ラルフはゲルリンデにもアタックを中止するように懇願したが、ゲルリンデは聞き入れなかった。事実、その後の登山メンバーによる小規模な雪崩が3回発生した。この雪崩によって60m後方を進んでいたトミーが飲み込まれた。トミーは自力で雪から脱出したが、雪崩によってルートが失われ引き返さざるを得ない状況となった。

アタックメンバーはラルフとトミーを欠いて4人となった。カザフスタン出身の登山家マクスト・ジェマイエフとバシリー・ピフツォフはそれぞれ6度目と7度目のK2挑戦であり、ポーランド出身の映像作家ダリウス・ザウスキは4回目の挑戦であった。8月20日、第3キャンプに到着。前進キャンプまで後退したラルフは、衛星電話で気象情報を伝えたりアドバイスをしたりして登頂をサポートした。8月21日、一行は第4キャンプ(7950m)に到達した。

デスゾーン

標高8000mからは人間の行動力や判断力が著しく鈍り、死と隣り合わせであるので「デスゾーン」と呼ばれる。第4キャンプから山頂までは標高差600mに過ぎないが、2008年に11人の死者を出した遭難事件以来ここに到達したのはゲルリンデらのメンバーが最初である。8月22日、4人は第4キャンプを出発し、「ジャパニーズ・クロワール」に到達した。「ジャパニーズ・クロワール」には胸まで沈む新雪が積もっており、6時間かかっても180mしか進むことが出来なかった。

ラルフは無線で一度第4キャンプに戻ることを勧めたが、一行は最終的に8300mの地点で2人用の小さなテントを張ることにした。氷を切り崩して平面を造りテントを固定するだけで1時間30分かかり、午後8時過ぎに4人はテントに入ることが出来た。午前1時頂上に向けて最後のアタックを始めようとしたが、指先の感覚が無く、足も氷の塊を引きずっているようで体の震えも止まらなかった。とてもアタックは無理と判断されテントに戻って暖を取り、夜明けを待って出発した。

ゲルリンデのリュックの中は手袋、トイレットペーパー、サングラス、包帯といった最低限の物品とスポンサーのオーストリアの石油会社の旗と仏像を入れた銅製の小箱が入っていた。午前7時に出発して130mの雪の斜面を目指した。午後3時に斜面の麓に到達。斜面では胸まで埋もれる雪に進路を阻まれ10歩毎に隊列の先頭を交代した。ラルフはその様子を麓から双眼鏡で観察してアドバイスを送った。やがて斜面は傾斜60度の岩場となったが積雪は浅くなり、一行は斜面を抜けて頂上に繋がる尾根に出ることに成功した。

午後4時30分には山頂ドームが見えてきた。ゲルリンデは午後6時18分に山頂に到達。15分遅れてマクストとバシリーが到着、30分後にダリウスも到着した。オーストリアのヴェルナー・ファイマン首相は「偉業に感銘を受けた」と讃えた。カザフスタン首相はマクストとバシリーへの賛辞をツイッターに書き込んだ。

下山、そして帰郷

ラルフは、山頂から4つの光の点が移動し、ジャパニーズ・クロワールに入るのを望遠鏡で確認した。K2での死亡事故の1/3以上は下山中に発生するので、ゲルリンデらの帰還を心配で見守っていたのだ。第1キャンプには、途中で下山したラルフが妻であるゲルリンデに宛てた手紙が残されていた。

2日後、第1キャンプを出発した一行をラルフが氷河の上で出迎えた。ゲルリンデはベースキャンプで2010年に一緒にK2に挑み滑落死した友人のフレデリックの父親と、息子が眠る山の山頂について衛星電話で話をした。ゲルリンデは帰国時には7kgも痩せていた。ミュンヘンの空港には家族全員が出迎えた。 ビュール(Bühl)では祝賀会が開催され、K2の山頂で両手を突き上げるゲルリンデの写真をラベルに使用した、特製の3リットル赤ワインボトルが寄贈された。

・・・・・・・・明日 ( 【インタビュー】Webナショジオ・インタビュー 野口健 ) に続く・・・・・ 

Today’s B.G.M, = K2: The World’s Most DEADLY Mountain to Climb

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