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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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今日(狂)の狂言 : 06月28日(金曜日) &旅と文化の足跡が野帳

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★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 ★

◆ 鹿ヶ谷の飲み会で酒瓶を壊しては時の太政大臣をdisっていたことがチクられ、参加者が粗方お縄になる(1177年)。 ◆ オーストリア=ハンガリー皇太子殿下とその御婦人がサラエボへ遊びに行ってたところ銃弾をお見舞いされる。(1914年)これが協商国Vs.同盟国の4年にもわたる世界規模の大喧嘩の幕開けを告げる一発だった。 ◆ ヨシフ・スターリンがユーゴスラビアを破門(1948年)するも、その頭目のヨシップ・ブロズ・チトーの粛清までは出来ぬまま以後30年以上も生き永らえることに。

◎ ◎ ジェームズ・ボンドを生んだ、英国のスパイ組織「非紳士的な戦争省」 =後節= ◎ ◎ 

- -「ヨーロッパを燃え上がらせろ」と英首相チャーチルは命じた - -

=National Geographic Journal Japan 〉ニュース〉旅&文化〉

・・・・2024.05.12 / 文=Erin Blakemore/訳=米井香織・・・・

 なぜ「非紳士的」と呼ばれるのか?

 SOEの仕事は非常に危険だった。例えば、SOEの無線技士はヨーロッパにパラシュートで降下した後の余命が6週間で、女性構成員の44%がフランスで捕虜になった。諜報員は拷問や処刑、強制収容の可能性があり、現場での生活は危険で孤独なものだった。

  SOEは構成員を支援するため、特殊な武器や装備を開発した。偽の足跡を残すことができるスニーカー、スーツケースのように見える無線機、消音装置が付いた銃、袖に隠すことができる銃器、革新的な爆発物などだ。また、偽の書類や新しい身分証明書なども支給した。(参考記事:「ネコかハトか、スパイの適性を持つ動物は? 真面目な研究の歴史」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/021600094/ 

 この極秘組織はやがて、チャーチルの造語である「非紳士的な戦争省」という愛称を得た。ヒトラーがヨーロッパに築いた足場を崩壊させるため、秘密主義、ずる賢さ、そして殺人にさえ頼る秘密組織としての「型破り」な行動に由来する。

  SOEの戦術は常に命懸けだったわけではない。諜報員はドイツの軍服にイッチングパウダー(触るとかゆくなる粉)を振りかけるようなこともしていた。また、敵を混乱させたり、士気を低下させたり、武器の生産を遅らせたり、レジスタンスグループを励ましたりした。その戦術、そして、必要であれば殺しも許されるという「型破り」でさまざまな要素が絡んだことは、英海軍の諜報員としてSOEとやりとりしていたイアン・フレミングがジェームズ・ボンド・シリーズを書くきっかけになった。

 どうして物議を醸したのか?  ただし、SOEは完全無欠ではなかった。例えば、オランダでは、ナチスのスパイによる潜入を許した。警告があったにもかかわらず、当局は手遅れになるまでその証拠を無視し続け、53人の諜報員がドイツの手に渡り、その過程で約200万ドルの損失が出た。これは第2次世界大戦における最大級の失策として知られている。(参考記事:「ナショナル ジオグラフィックに潜入したナチス」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/050800170/   

 SOEの行動はしばしば、英国と同盟国、さらには英国の指導者同士を対立させる事態をもたらした。例えば、ポストマスター作戦では、英国が自国の領土から商船を盗んだことに中立国のスペインが激怒し、作戦について知らされていなかった英国軍の首脳陣や政治指導者の間でも騒動が起きた。

  SOEの行動が裏目に出ることも多かった。例えば、1942年、SOEの諜報員によって訓練されたチェコのレジスタンスグループがラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功した。ハイドリヒはナチスの有力者であり、ドイツの支配地域で進行していた「最終的解決」計画の推進者だった。(参考記事:「4万2千カ所確認、ナチス収容所新調査」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7815/

  暗殺は勝利だったが、ナチスによる残忍な報復を招いた。ナチスは報復として数百人を処刑し、チェコの町リディツェを壊滅させ、170万のユダヤ人を死に至らしめた悪名高い絶滅計画のひとつをハイドリヒにちなんで命名した。(参考記事:「失敗したスパイの歴史」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7961/

 今に続くSOEの遺産とは?  SOEの秘密主義は、1946年の解散後、その勇敢な構成員が過小評価されることを意味し、その成功と失敗の多くは数十年後まで人々に知られることはなかった。秘密組織の記録が機密扱いを解除されたのは1990年代に入ってからで、諜報員の多く、特に女性は、その活動が公に認められることはなかった。(参考記事:「発見!1500年前のモザイク画に描かれたスパイ」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/071100306/ 

  SOEはヨーロッパ全域でヒトラーとナチスに対する大反乱を扇動するという目標を成し遂げることはできなかった。しかし、その秘密裏の活動は間違いなく、第2次世界大戦における連合軍の勝利に貢献した。そして、ヨーロッパは自由を取り戻した。SOEは現在、いわゆる非合法作戦の火付け役とされており、その「型破り」な戦術にもかかわらず、おおむね成功したと評価されている。

……資料.

秘密情報部(Secret Intelligence Service、SIS)は、イギリスの情報機関の1つ。MI6の通称が広く知られている。国外の政治・経済及びその他秘密情報の収集・情報工作を任務としている。 第一次世界大戦以前にはイギリスの諜報活動は、複数官庁が個別に組織を設け活動していた。第一次世界大戦が勃発すると全情報を一元的に管理することになり、戦争省情報部(Directorate of Military Intelligence, DMI。直訳では「軍情報総局」)の元で各組織との連絡を担当する課の名称としてそれぞれのミリタリー・インテリジェンスの種類に応じて組織名に番号が割り振られた。

 第一次世界大戦中のSISはMI(c)と呼称されていたが、1930年代後半にMI6の名称が割り当てられた。他の組織には、MI1(暗号、暗号解読。後に海軍の「ルーム40」と統合され政府暗号学校を経て政府通信本部)、MI2(極東、アメリカ州、ソ連、中東、スカンディナヴィア)、MI3(東欧、バルト海沿岸諸国即ちリトアニア・ラトビア・エストニア)、MI4(地図作成)、MI5(防諜)などがある。第二次世界大戦中にMI5との連携が強化される過程でMI6の名称は広く用いられるようになった。SISでは既にMI6の名称を公的文書等では使用していないが、一般に認知されていることから、ロゴなど対外的広報では用いられている。

 SISとMI6の名は報道・ノンフィクション書籍(スパイ小説)・映画で古くから知られていたが、イギリス政府はその存在を公式には認めておらず、最終的に1994年にようやく関連法が整備され、政府はMI6の存在を認めるに至った。 組織としては外務・英連邦・開発省の管轄であるが、外務大臣だけでなく首相と内閣府内の合同情報委員会(JIC)へも報告が行なわれ、これらの指揮を受ける関係にある。

 第15代長官を務めたジョン・サワーズは公式見解として「任務は指導者に情報を提供することで、軍事工作はしない」「(007のような)殺しのライセンスは無いし、欲しくもない」と語っている。 ・

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