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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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今日(狂)の狂言 : 06月22日(土曜日) &旅と文化の足跡が野帳

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★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 ★

◆ 炬燵に入ってカニ鍋に熱燗なんて時期は当の昔に終わっているのに、何故か本日はカニの日。でかいカニの看板で有名な料理屋がこの日にしたんだとか。 ◆ 神田の映画館で赤い布を振り回して破目を外した連中が、御用となる(1908年=赤旗事件)。 ◆ 永井荷風のアーン♥♥小説を面白半分で載せた雑誌、当局の検閲によって陽の目を見ずに終わる(1972年)。

◎ ◎ 南極横断はどこからどこまで? 総距離が突如半分に ◎ ◎

- - -<検証/ 第2回>疑惑の南極単独横断、冒険家に集まる批判 =後節= - -

=National Geographic Journal Japan 〉ニュース〉旅&文化〉

・・・・2020.03.02 / 文=Aaron Teasdale/訳=ルーバー荒井ハンナ・・・・

 棚氷の下には本当の大陸が覆い隠されているのだが、それはリモートセンシング装置を使わなければ見ることはできない。最近になって、一部の冒険家たちが、スポンサーやメディアを喜ばせるために、目に見えないこの「海岸」から始まる陸地こそが大陸であり、その部分を制覇すれば大陸を横断したことになると主張し始めた。こうして、突如として南極大陸横断の距離は半分に短縮された。

  この短縮版ルートに、多くの冒険家たちが飛びついた。2010年には2人組の冒険家が支援を受けずにスキーで1900キロを横断し、2012年には女性が単独で、空中投下による食糧補給を2回受けながら、1740キロを横断した。しかし、オブレイディ氏はこれをさらに数百キロ短縮させて、これまで誰も主張しなかった最短距離の新「大陸横断」ルートを切り開いた。

  つまり、誰もまだこのルートを成功させたことがないというよりは、達成しやすさという点でこれほどのルートを定義した者が誰もいなかったといったほうが正しい。

  この短縮ルートに初めて単独無支援で挑戦したのは、英国人のヘンリー・ワースリー氏だった。2016年にスキーで横断中だったワースリー氏は、ゴールまであと200キロというところで細菌性腹膜炎にかかって救助を要請した。その後チリの病院へ搬送されたが、そこで死亡した。オブレイディ氏は何度か、出演した番組や本のなかで、「ワースリー氏は私とラッド氏が目標としていたゴールを目指し、命を落としました」と語っている。  

 しかし、実のところワースリー氏のルートはオブレイディ氏のそれよりも長くはるかに危険で、救助を要請したときにはオブレイディ氏の全行程よりも長い距離をすでに踏破していたという事実に、オブレイディ氏は触れていない。

  オブレイディ氏は、「不可能」を可能にさせたという功績を売りにしているが、ナショジオが話を聞いたベテラン冒険家たちは、オブレイディ氏のルートを「達成可能」「疑わしい」「落胆」「不誠実」などと表現した。

  米国人の極地冒険家エリック・ラーセン氏は、「彼のルートは、誰が見ても『不可能』とは到底思えないルートです」と話す。「これまで誰もこのルートに挑戦したことがなかったのは、記録を破るという観点からは誰も挑戦に値すると考えなかったためです」。ラーセン氏は、オブレイディ氏が極地探検のスキルを学ぶために助言を求めたガイドのひとりだ。

 「あのルートは、これまでにも多くの人が挑戦してきたので、ALEには衛星地図もGPS地図も揃っています。エベレストでも同様のことが起こっていますが、南極大陸も人間に手なずけられてしまいました。経験が浅くても挑戦する人が増えているのはそのためです。アドベンチャーツーリズムと呼ぶのがふさわしいでしょう」(参考記事:「エベレスト登山、渋滞の背後にある大きな問題」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/053100315/

 第3回「急ぎすぎた野心家、コリン・オブレイディ」へつづく  

  ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)の, 南極点到達とパーティーの遭難

 1912年1月17日18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した。翌18日に英国国旗を立てる。しかしその時は、アムンセン隊が南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていた。

 失望に覆われたパーティーは帰途、3月29日までに全員が死亡した。 エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、2月6日に最初に死亡した。 しかしこのような状況にあっても、ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。さらに不運なことに、2月から3月としては例外的な荒天が続いた。また、前年にデポに貯蔵した燃油も、冬と夏の気温差により缶が損傷したため、著しく欠乏していた。

 続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、自らを見捨てるよう嘆願するようになった。彼が重体となった3月17日の朝、オーツは「I am just going outside and may be some time(「ちょっと外へ出てくる」)」と言葉を残してブリザードの中、テントから出て行方不明となる。この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。

 3月21日、食料を置いたデポまであと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。吹雪は10日間も吹き荒れ、テントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。スコットは日記に1912年3月29日付で「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書き残し、寝袋に入ったまま、残りの3人全員がテント内で息を引き取った。

 先に帰還した隊員たちは、2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。捜索隊により3人の遺体が発見されたのは、次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。 

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