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Channel: 【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》
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メキシコの遺跡 / モンテ・アルバン 3/3 ; 歴史深層(023)

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ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月04日<ⰧⰊⰧ

☆★ 兄弟をぶっ殺した李世民(太宗)が、唐の第2代皇帝として史上稀にみる名君振りを発揮し始める(626年)。☆★ 無断で線路に進入してエクストリーム・下山に成功したガキのせいで、全国の蒸気機関車ファンが迷惑を被る(1976年)。☆★ 1998年 - Google社設立、ビッグ・テックの一つに成りあがるとは……。 &so、浦安にもうひとつの鼠園がオープンする(2001年)。

本日記載附録(ブログ)

メキシコ南部のオアハカ州西部からプエブラ州南部にかけて広がるミシュテカ文明があった。 ・・・・・オアハカ盆地中央、オアハカ市街の西方10km、比高差400mにある山の頂上にサポテカ文化の中心をなす祭祀センターがあった。 A.D.500~A.D.750紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄したが、ミシュテカの支配を受けて衰退する。

ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、アステカ皇帝アウィソトル(在位1486年-1502年)によって30年ほど征服されていた。 彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。

【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)

古代メキシコ、謎の「黄金の胸飾り」はいったい何者か?

◇◆  アステカ帝国に屈服するも ; 黄金の胸飾 =3/3= ◆◇

 …この構造物の上や周辺から住居は見つかっていないため、近くに住んでいた人数は不明だ。しかし猪俣氏は、基壇の巨大さから、アグアダ・フェニックスを作った人々は、徐々に狩猟採集生活を離れていったと考えている。トウモロコシの栽培がこれを促進した可能性が高く、遺跡からはその証拠も見つかっている。

「その壮大な規模は、驚くべきものです」と、この地域の初期の歴史を研究するTerracon Consultants社の考古学者ジョン・ローゼ氏は話す。今回の研究には関わっていない同氏は、しかし、この構造物が定住生活の証拠になるとは考えていない。「定住前の人々による巨大建造物は、世界的には珍しくありません」

 ローゼ氏によると、今回の研究が間違いなく示しているのは、人々が平等に共同作業をするという進んだ能力だという。氏はこうしたやり方が初期のマヤ社会では典型的だったと考えている。猪俣氏も、基壇は、強い社会階層をもたないコミュニティーが造ったと考えている。

 ここが儀式の場だったと考える根拠として、猪俣氏は西に390キロ、オルメカ文明のサンロレンソ遺跡にあるさらに古い儀式場を挙げる。アグアダ・フェニックスより400年ほど前に作られたサンロレンソ遺跡には人工の段丘があり、同様の機能を持っていたかもしれない。しかし、そこには人間の巨大像があることから、一部の人が他者よりも高い社会的地位をもっていた可能性もある。

 アグアダ・フェニックスを建造した人々は、サンロレンソからインスピレーションを受けていた可能性もある。だが、サンロレンソで研究をしてきたメキシコ国立自治大学の考古学者アン・サイファーズ氏によれば、両遺跡は「まったく違う」という。さらに、サンロレンソで見つかった土器は、アグアダ・フェニックスで見つかったものとは大きく異なると、同氏は付け加える。

共同の社会から縦社会へ
 ところで、このような巨大共同建設プロジェクトを行う目的は、何だったのだろうか? 論文の共著者であるカナダ、カルガリー大学のベロニカ・バスケス・ロペス氏は、意図を示すものだったのではと考える。つまり、数世代にわたり異なるグループの人々を結びつけることを目的とした公式の共同事業だったというのだ。

 たとえば、貴重なヒスイの斧は、共同建設プロジェクトの終わりを象徴しているのかもしれない。一方、基壇に使われた土の層には、異なる色の土が市松模様のようになってところがあった。異なるグループが建造したことを象徴しているのかもしれないという。

「今日でも、メキシコの一部の町では、異なる地区の住民が、中央教会広場の清掃を分担しています」とバスケス・ロペス氏は述べる。

 このアグアダ・フェニックスの歴史的建造物は、紀元前750年までに放棄され、1000年以上後のマヤ文明古典期までには、より高いピラミッドが建設されるようになった。以前より小さくなった基壇には上層部だけが上がることを許され、幅広いコミュニティーが集まるスペースはより狭くなった。

「初期には、人々はとても興奮していました」と猪俣氏は語る。「その後、熱狂は少し冷めてしまったのです」
                 文=TIM VERNIMMEN/訳=牧野建志

次回は“ハドリアヌスの長城を踏破した、今も英国に残る「ローマ帝国」”に続く・・・

⨁⨂参考資料: モンテ・アルバン/Monte Albán (3/3) ⨂⨁

テオティワカン人は、武装したり、兵士を伴った者はひとりもいない代わりに、コパルの香炉を持っている人物などが見られるため、テオティワカン地図化プロジェクトで知られる研究者ルネ・ミロンなどは、特別で友好的な外交関係があったのではないかと主張する。

テオティワカンには、オアハカ地区(Oaxaca Barrio)と呼ばれるオアハカ独自の遺物が検出される場所があり、モンテ・アルバンでは、緑色黒曜石製品や薄手オレンジ土器(Thin Orange Ware)の壷、碗、円筒型三足土器、「フロレロ」、テオティワカン様式の土偶などが出土する。

ただし、量的には多くはなく、貴族の住居や墓などからの出土に限られることから支配者層同士の交流であって、同盟関係を強化するための政略結婚もあったかもしれないがそれを確かめるすべはない。

以後のメキシコ中央高原で260暦の誕生日を人名とする慣習が見られることから宗教、天文学の情報が交換されたかもしれないが、さかんに交易がおこなわれているとは言い切れない。

なお、モンテ・アルバンでは、テオティワカン人をはじめとする外国人の居住区は見つかっていない。

この時期、オアハカ盆地では、盆地南部のセンターであるハリエサの人口が1万2000人ほどと推定され、モンテ・アルバン以外にもモンテ・アルバンと同じ様式の石彫が見られるなど盆地全体に人口が比較的均等に分布していたと考えられる。

モンテ・アルバンの衰退
モンテ・アルバンIIIb期(500年~750年)には、人口はモンテ・アルバンに集中し、2万5000人に達したと考えられ、規模は、6.5km2に拡大した。盆地全体の人口は、8万人ほどに減少したと考えられる。

モンテ・アルバンの中央広場が完全に建物で囲まれたのがこの時期である。広場の出入り口が3ヶ所に限られ、防御性が増したことから、貧富の差が拡大し、庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられる。

モンテ・アルバンIV期(750年~1000年)には、モンテ・アルバンはすっかり衰退し、人口4,000人ほどの二流のセンターになりさがる。

地全体では7万人に減少し、盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大の集落となったがモンテ=アルバンに見られる大建造物に囲まれた中央広場は築かれず、小センター同士の分裂状態になった。 なお、盆地南部のトラコルラ河谷のミトラがこのころから本格的に活動し始めたと考えられている。

このような状態であってもモンテ・アルバンの中央広場は放棄されずに維持されてきたと推定される。このことは、最近の発掘調査によって、モンテ・アルバンV期(1000年~1520年)に北基壇の建造物Bの最上層の建設が行われたことが判明したことからも裏付けられている。

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  = Monte Alban and the Zapotecs  =

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=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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