ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年09月02日<ⰧⰊⰧ
☆★ かつての千円札の顔だった日本初代の総理大臣が誕生(1841年)、奇しくも38年後には安重根義士も生を享け68年後に二人は刺客と標的として邂逅する皮肉なことに。☆★ 大日本帝国が美しい国に屈服して解体され、北方領土がロシア領になってしまい、朝鮮半島は南北に分割され、台湾は国民党中国に譲渡。更に、ドサクサ紛れでフランス領だったベトナムが勝手に独立を宣言するカオスな一日(1945年=ポツダム宣言に調印)。☆★ モルドバの東側を流れる川沿いの地域ボス住民が、自分たちの富を搾取されるのを嫌がって民族自治を主張して独立(1990年=沿ドニエストル・モルドバ共和国)。
本日記載附録(ブログ)
メキシコ南部のオアハカ州西部からプエブラ州南部にかけて広がるミシュテカ文明があった。 ・・・・・オアハカ盆地中央、オアハカ市街の西方10km、比高差400mにある山の頂上にサポテカ文化の中心をなす祭祀センターがあった。 A.D.500~A.D.750紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄したが、ミシュテカの支配を受けて衰退する。
ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、アステカ皇帝アウィソトル(在位1486年-1502年)によって30年ほど征服されていた。彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
古代メキシコ、謎の「黄金の胸飾り」はいったい何者か?
◇◆ アステカ帝国に屈服するも ; 黄金の胸飾 =1/3= ◆◇
=メキシコ南部から出土した120点以上の金細工は、ミシュテカ文明を象徴する貴重な品々。その一つ、黄金の胸飾りが誰を表すのかを巡る議論が続いている。二つの文明が栄えた古代都市モンテ・アルバン=
複雑な模様が施された黄金の胸飾り。メキシコ南部の古代都市モンテ・アルバンで発見された120点以上の金細工の一つで、ミシュテカ文明の権力者が身に着けたものと考えられている。しかし、この胸飾りがもつ意味や、これが誰を表すのかについては今も謎に包まれており、研究者によってさまざまな解釈がなされている。
モンテ・アルバンの発見
古代都市モンテ・アルバンがあるのはメキシコのオアハカ州。この地域に古代のさまざまな遺跡があることは、1930年に考古学者アルフォンソ・カソが発掘作業を始めるまで、ほとんど知られていなかった。
山頂にあるモンテ・アルバンは、1000年以上にわたってサポテカ文明の中心地として栄えたと、カソは考えた。しかし、西暦700年ごろになると、この古代都市は衰退していく。
やがてサポテカはこの都市を放棄。900年ごろには、ミシュテカがサポテカに代わって権力を握ることになった。ミシュテカ人による支配は、スペイン人による征服がこの地域に及んだ1521年まで続いた。
ミシュテカは、サポテカが建てたモンテ・アルバンの建造物を再利用していた。王族の墳墓もその一つだ。カソは、そこにあった20の建造物と176の墓を発掘した。そして1932年、ある権力者の住居の壁の先で、7号墳墓を発見した。これは、多くの人々にメソアメリカ文明最大の発見と見なされている。
この墓は1330年ごろのもので、500点以上の遺物が含まれていた。黄金の装飾品は120点以上におよび、ミシュテカがこのあたりでもっとも優れた金細工技術を持っていたことを示している。ろうで原型を作って鋳造する方法で、胸飾り(首にかけて胸を飾る装身具)やペンダント、ネックレスなどの装身具を作っていた。)
カソの発見の中でも最大級と考えられているのが、黄金の胸飾りだ。カソはこれについて、「我々が知る中で、おそらくもっとも美しいメキシコの金細工」と記している。それだけではない。このまばゆい胸飾りは、ミシュテカ文明で用いられた複雑な象徴言語(絵文字)を知るうえで、貴重な情報源でもある。
胸飾りは誰を表すのか
モンテ・アルバンでのカソのもう一つの大きな発見が、ミシュテカ絵文書と呼ばれるものだ。この胸飾りがどんな背景で作られ、誰を表しているのかを解明するうえで、この絵文書が貴重な手がかりとなる。絵文書はシカの皮に書かれ、ミシュテカの起源に関する神話や、統治者や神官、戦士らの複雑な家系が記録されている。
カソはミシュテカの暦も研究し、それによって胸飾りの肩の部分に描かれていた絵の意味を解読しようとした。そうしてカソは、胸飾りが「ロード5リザード」と呼ばれる統治者を表していると結論付けた(名前と番号は、ミシュテカ暦の誕生日によって決まる)。
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: モンテ・アルバン/Monte Albán (1/3) ⨂⨁
モンテ・アルバン(Monte Albán)は、メキシコ、オアハカ州のオアハカ盆地中央、オアハカ市街の西方10km、盆地の「底面」からの比高差400mにある山の頂上を平らにして築かれたサポテカ文化の中心をなす祭祀センターである。紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄した。後古典期には、ミシュテカ族に支配された。
メソアメリカ文明を考える上で非常に重要な考古遺跡であって、1987年に「オアハカ歴史地区とモンテ・アルバンの古代遺跡」の名で世界遺産にも登録されている。遺跡全体のひろがりは42km2に及ぶが、中央広場をかこむ東西200m、南北300mの範囲に主な神殿や、天体観測所(建造物J)、球戯場などがある。
モンテ・アルバンの立地条件及び建設の契機
モンテ・アルバンは、周囲との比高差400mの小高い山の上という立地条件から、農業用水や飲み水の確保に向かず、大部分の食料は輸入に頼らざるを得なかったと思われるが、一方で、盆地を一望できる天然の要害に位置し、オアハカの3つの小盆地を結びつける交通の要衝でもあったと考えられる。
このことから、かつては外敵に対してオアハカ盆地の諸センターが連合し、盆地中央に中立的な「新首都」を建設したと考える研究者もいた。
また、このような小高い山の上に祭祀センターを築いたのは、サポテカの人々にとって山が宗教的に神聖で重要な場所であったことを意味しているとも考えられるが、現在は、モンテ・アルバンが建設される直接の契機になったのは、先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地の勢力争いの激化であると推察されている。
というのは、モンテ・アルバンが建設される直前の時期にそれまでは盆地の底に集落が築かれていたのが、丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設されるようになることが判明してきたからである。
勢力争いの中心になるのは、モンテ・アルバン建設直前の最大の祭祀センターである盆地北部のエトラ(Etla)谷に立地するサン・ホセ・モゴテ、盆地東部のトラコローラ(Tlacolula)谷地域の勢力、盆地南部のバジェ・グランデ(Valle Grande)又はサアチラ(Zaachila)谷地域の勢力であった。
後二者が、サン・ホセ・モゴテに対抗して、モンテ・アルバンを築いたという説と、逆にトラコローラ、バジェ・グランデ連合に対抗してサン・ホセ・モゴテがモンテ・アルバンを築いたという二つの説が考えられている。
サン・ホセ・モゴテをはじめとするオアハカ盆地の遺跡を長年にわたって調査してきたマヤ文明の諸都市の関係についての研究で世界的に知られているジョイス・マーカス(Marcus,Joyce)と夫君ケントV.フラナリー(Flannary,Kent V.)は、後者の説を支持している。
その理由として、モンテ・アルバンIa期の土器様式、建築様式、暦、文字体系は、直前のロサリオ期の様式を受け継いだものが多く、また、後述する「踊る人々(Danzantes)」の石彫は、サン・ホセ・モゴテ石碑3号の系譜を引くものであり、ペルーのチャビン文化の遺跡セロ・セチンと比較する研究者がいるもののメソアメリカには類例がないものであることが考えられる。 ・・・・・・明日に続く
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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