ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年07月09日<ⰧⰊⰧ
☆★ 杉原千畝が、赴任先で極めて良質な背任行為・売国行為及び犯罪者逃走幇助に手を染め始める(1940年)。以後2か月近く犯行を継続し、2千人以上の逃走幇助。 よって、終戦直後に杉原はクビに。☆★ 巨人軍の総本山の隣に遊園地が開業(1955年)、2年前に始まったテレビとのセットによる巨人真理教の洗脳が本格化。☆★ スーダンの南側が分離独立(2011年)するも、適当な国名が無かったので南スーダンと取り敢えず名乗る。
本日記載附録(ブログ)
グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石
最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された
夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ 沈黙の巨石・ストーンヘンジの謎 =1/6= ◆◇
周辺での調査により、その真実に迫る重要な手がかりが
古代の巨石遺跡、ストーンヘンジとの最初の出会いは一瞬のできごとだった。場所は英国イングランド南部。ソールズベリー平原にある遺跡のすぐそばを通る幹線道路A303号線を走っていると、だだっ広い平原に突如現れた、一群の物体が目に飛びこんできたのだ。肩をいからせたそのシルエットを目にした瞬間、つかの間だが、まるで時空を超えて先史時代へとタイムスリップしたような感覚に包まれた。
近づいてみると、無傷で立つ石の周りに割れた石が転がっている。遺跡は噂に聞いていたよりも小さく見えたが、最大50トンもあるサーセン石(硬い砂岩の一種)を使った建造技術には、感心するしかない。ストーンヘンジは、今なお類例を見ない独特の古代遺跡だ。素材が木から石へと移り、この遺跡が造られた約4500年前当時も、際立った存在だったに違いない。
一対の石柱とその上に水平に渡した「まぐさ石」の間は、正確に切られたほぞとほぞ穴の凹凸を組み合わせて固定されている。木の建造物に用いていた技術をそのまま、新たな素材である石に応用した画期的な建造物だ。ストーンヘンジを造った人々は、何か未知の真理を探りあて、技術的な躍進を果たしたのだろう。この遺跡が何らかの意図をもって造られたことは明らかだ。では一体、どんな意味がこめられているのか?
その答えを求めて、何世紀にもわたって数えきれないほどの仮説が提唱されてきたが、本当のところはまだ誰にもわかっていない。先史時代のヨーロッパで誕生したストーンヘンジは、世界屈指の有名な遺跡で、これまでさまざまな角度から考察されてきた。それでも、ここが何のために使われていたのかは、まるで解明されていないのだ。
考古学者たちはこれまで、謎を解く鍵は石そのものにあるとみて、石の外形や刻まれた印、影の出かたなど、あらゆることを子細に調べてきた。しかし最近では、ストーンヘンジから遠く離れた場所にも足を運び、新石器時代の住居跡やウェールズ南西部の険しい岩山など、周辺の地域も調べている。はっきりした解答はまだ得られていないものの、現在進行中のこれら二つの調査から、きわめて興味深い可能性が浮かびあがってきた。
多彩な古代建造物
この地では巨石のモニュメント以前にも、謎に満ちた数々の古代建造物が造られてきた。その豊かな伝統を抜きにして、ストーンヘンジを語ることはできない。「ヘンジ」とは、内側に溝を掘った円形の土塁を意味する(土塁の外側に溝が掘られているストーンヘンジは、厳密な意味での「ヘンジ」にはあてはまらない)。塚や小丘、木を使った環状構造物、一本石の柱(モノリス)、円形や馬蹄形に石を並べた遺跡など、いずれも新石器時代のブリテン諸島やヨーロッパ大陸の一部でよく造られた。ストーンヘンジは、その成立の過程で、こうした伝統の多くを反映している。
ストーンヘンジには、人類とその創造物のダイナミックな進化が凝縮されている。最古のものとして知られている列石にはウェールズ産のブルーストーンが用いられた。おそらく紀元前2500年ごろ、海や川を利用し、陸路では道具を使って引っ張るなどして、はるばる運ばれてきたようだ。その後に巨大なサーセン石がやってくる。遺跡とエーボン川は、どこかの段階で道で結ばれた。巨石のモニュメントは水となんらかの関係があるようだが、石を使い始める前の時代に造られた土塁には、もっと多彩な信仰が反映されていたと考えられる。
環状列石は崩壊が激しく、往時の姿を思い描くのは難しい。むしろ、成立までのプロセスを想像するほうがたやすいだろう。完成までの計画立案と、実際に使われた土木技術。異なる領土を横切って巨石を運ぶには、巧みな交渉術を要しただろうし、運搬の労働力を調達し、必要な装備を与えるのもひと仕事だったはずだ。
農業や牧畜、狩猟をして生活していた健康な男たちをどう説得して集め、きつい石運びに従事させたのか。そうした人間の営みについては、現代の私たちでも容易に思いうかべることができる。もっとも、彼ら古代ブリトン人がどんな社会を作り、どんな言葉を話していたのかは、ほとんどわかっていないのだが。
・・・・・・・明日に続く・・・
…… 参考資料: ストーンヘンジに集い祝宴を開く古代人(2/2) ……
今回の発見は、イギリスのシェフィールド大学の大学院生サラ・ヴァイナー氏の研究が基になっている。ヴァイナー氏の指導教官で動物考古学者のウンベルト・アルバレッラ氏は、「今回の化学分析は、先史時代の牛の出身地をピンポイントで示せるほど精密ではないが、ストーンヘンジ以外のイギリスのどこかから人々が家畜を連れてやって来たことは証明された。人々は、非常に広い範囲から集まっていた」と話す。
さらに、古代の村から出土した牛骨を調査したところ、生まれたばかりの子牛がいないことが判明した。「家畜を飼育している場所であれば、その子どもの骨が大量に見つかるはずだが、まったく見つからなかった。だから、ここは生産する場所ではなく消費する場所だったのだと考えられる。ここは特別な目的のための場所だったと言える。人々が集い、おそらく恐ろしいほどの量のごちそうを並べて祝宴を開いていたのだろう」とアルバレッラ氏は語る。
アルバレッラ氏の参加するストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトのリーダーで考古学者のマイケル・パーカー・ピアソン氏は、「ストーンヘンジとダーリントンウォールは同じ環状構造を持つ遺跡だが、一方は石造りの柱、もう一方は木柱とその素材が示すように意味合いは異なる。祖先崇拝を尊ぶ古代ブリトン人にとって、木は生者の領域を象徴し、石は祖先の死者に結びつくものだ」と話す。
最近ダーリントンで発見された先史時代の何百という住居跡は、特定の季節に限定された村であったと考えられている。古代多神教徒の巡礼者が冬至と夏至を祝うために訪れたのだという。
先史時代のゴミ捨て場は、豚や牛の骨、壊れた陶器など、石器時代の祝宴の証拠にあふれている。「巡礼者たちは出身地方ごとに村の中に割り当て区域を持っていた」とする新しい学説も発表されており、家畜の化石の研究がさらに進めば、この学説を支持するものとなるかもしれない。
「現時点までの研究はまだ断片的なものだが、陶器の種類が住居跡の区域ごとに異なっているように思われる。まだ仮説にすぎないが、牛の出身地から解明できるかもしれない」とアルバレッラ氏は語る。人の歯は火葬のために残っておらず、牛の歯が貴重な手掛かりなのだという。 / Photograph by Kenneth Geiger/NGS
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= Avebury Stone Circle, Stonehenge, and other British neolithic monuments =
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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