ⰧⰊⰧ Intermiussion/幕間 =狂(きょう)の出来事=平成4年06月30日<ⰧⰊⰧ
☆★ グランドキャニオンでユナイテッド航空とトランスワールド航空の決闘が行われ、双方合わせて128人の血が流される(1956年)。☆★ イギリスのバンドが日本武道館で公演、ハプニングゲストとしてコメディグループも登場(1966年)。☆★ 上野動物園の名物だったおサル電車がこの日を持って廃線に(1974年)。おぉお、本日はハーフタイムデー。誰が決めたか・・・ 一年も残す所あと半分となる日であつた。
本日記載附録(ブログ)
グレートブリテン・アイルランド連合王国南部₌ソールズベリー₌の北西近郊に在る環状列石
最も有名な先史時代の遺跡である。この直立巨石はBC2500年~BC2000年の間に建立された
夏至の日、ヒール・ストーンと呼ばれる6mの玄武岩と、中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
◇◆ ここまでわかったストーンヘンジ、その謎と壮大な規模 =2/3= ◆◇
火葬、宴会、「木」のヘンジ…解明される遺跡同士のつながりと意味
石はどこから、どうやって運んだのか
1つが4トンほどあるブルーストーンは、陸路で200キロ以上離れたウェールズ南西部のプレセリ山地から運ばれた。この仮説は1920年代に初めて提唱され、2000年代の地質学的調査によってカーン・ゴイドグおよびクライグ・ロース・イ・フェリンが採石場所だと特定された。
石が実際にウェールズからソールズベリー平原までどのように運ばれたのかについては、まだ議論が続いている。氷河によって偶然運ばれたとする説も過去にはあったが、今では人力で運ばれたとの見解で大半の学者が一致している。運搬方法や、陸路か水路のどちらで運んだのかという点に関しては不明だ。船やいかだに載せて海岸沿いに運び、河川を伝ってエイボン川から引き上げたとする説もあれば、目撃した人々に印象付けるために、そりに載せて地面を引きずって運んだとする説もある。
なぜブルーストーンが選ばれ、多大な労力を費やしてウェールズから運ばれたのかは定かではない。最近、ストーンヘンジで発見された遺骨の同位体分析を行ったところ、ブルーストーンの採石地の出身者であることがわかった。この場所まで石を運んできた労働者たちの遺骨ではないかという説もある。
儀式的な意味合いをもつ配置
現在の考古学者たちは、ストーンヘンジを中心とするモニュメント群が儀式的な意味合いをもつように配置されていると考えている。紀元前2500年以降に造られたアベニューは、ストーンヘンジとエイボン川をつなぐ間に聖域同士を結んでいる。アベニューの向きは、夏至の日の出と冬至の日の入りの方向に一致するため、新石器時代の人々がどれだけの天文学的知識を利用したのかという謎が生まれた。
ストーンヘンジ周辺の遺跡は、象徴的かつ物理的にストーンヘンジと結びついている。ストーンヘンジのおよそ3キロ北東には「ダーリントン・ウォールズ」がある。それ自体が巨大な円形の土塁跡からなる複合遺跡だ。この土塁が造られる前には大きな村があったと考えられている。
ダーリントン・ウォールズの重要性は近年、より明らかになってきた。2000年代初頭、英シェフィールド大学のマイク・パーカー・ピアソン氏が共同で率いた「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト(SRP)」(ナショナル ジオグラフィック協会も資金を提供している)によって、何百もの住居跡からなる新石器時代の村落跡が発見された。村にはストーンヘンジを造った労働者が暮らしただけではなく、ブタなどを焼いて食べる大規模な宴会に参加した巡礼者たちが滞在したと考えられている。
発見されたブタの骨の同位体分析からは、それらが全て地元で調達されたわけではなく、ウェールズやスコットランドを含む全島からブタ宴会にやって来た人々が、それぞれの土地からブタを連れて来ていたことがわかった。こうした証拠は、ストーンヘンジや周辺の遺跡群が、ブリテン島全域の住民にとっての儀式の場だったことを裏付けている。この村はやがて打ち捨てられ、代わりにブリテン島で最大の「ヘンジ(環状遺跡)」となる巨大な円形の土塁が造られた。
近年、深さ60センチほどの穴が複数発見され、ダーリントン・ウォールズの近くに巨大な木造構造物があったことが示唆されている。穴は1.6キロ以上に及ぶ円弧状に配置され、全体で300個ほどあるようだ。かつてはそこに高さ約5メートルの頑丈な木柱が立てられ、ソールズベリー平原にまた別の象徴的な風景を作り出していたと考えられる。
・・・・・・明日に続く・・・
…… 参考資料: ストーンヘンジの不都合な真実… =4/4= ……
「20世紀の完全な作り物」説、何度も大規模修復し隠蔽
・・・・・確かに、この点は説明されるべきだろう。それがないために、ストーンヘンジという古代人による神秘的な遺産は、20世紀に国家ぐるみで脚色して作り上げられたものだという極論まで生まれているのである。
ただ、ひと昔前までは、絵画のような美術品の修復においてすら、元の状態を想像して、修復師が上から新たに絵具で描き足すという作業が続けられてきた。そのため、オリジナルとの乖離は珍しいことではなかった。同様にして当時、ストーンヘンジの復元にかかわった人々も、現代の感覚からすると違和感を伴うかもしれないが、さまざまな復元方法はあり得、自分たちの活動に誇りをもって取り組んできたものと思われる。そのような意味では、おそらく、復元作業において特別深い意図はなかったものと想像される。
問題は、やはりイングリッシュ・ヘリテッジが1964年の修復を最後に、その詳細を故意に伏せてきたことにあるだろう。70年代には上からの指示で隠蔽体制が確立されたといわれている。その背景には、観光収入への期待感があったのだと想像されるが、説明不足は否めない。後ろめたいことが何もなかったとしても、今となっては、復元を大胆にやり過ぎた印象は拭えない。
1986年、ストーンヘンジはエーヴベリーの遺跡群と合わせて、ユネスコの世界遺産に登録された。そして、世界で最も有名な先史時代の遺跡として輝かしき地位を獲得している。それは、皮肉にも早期に大胆な復元作業を行い、余計なことは語らない体制を強化してきた成果だったといえるのかもしれない。
一方、日本の富士山が世界遺産に登録される際、ゴミ問題(環境管理)が障害となった。世界遺産への登録には、そのものの価値以外にも要求される要素は多く、厳しい基準があった。また昨今、日本においては情報公開のやり方とタイミングを失敗して、とても大きな問題に発展するケースが目立つ。
単に日本人は粗探し好きにもかかわらず、情報公開が下手である可能性もあるのかもしれないが、時代とともに我々の価値観も変わり、イギリスにおいても情報公開の必要性がもっと叫ばれるようになるのではなかろうか。 (文=水守啓/サイエンスライター)
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= Stonehenge was reconstructed after WWⅡ =
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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